#1
カナカナが泣いていた。
いつもならただうざったいだけなのだろうが、
今日はカナカナの鳴き声も耳にあまり入らない。
カナカナカナカナ、ガタン。
白衣を着たお爺さんが窓を閉じた。とたんにカナカナの鳴き声は聞こえなくなった。
室に残ったのは、彼女の母親と、彼女の妹の、すすり泣く声だけだった。
医者が最後まで窓を開けていたのは、多分彼女が死ぬ前に何気なく言った、
蝉の一生は儚いよねという類の言葉を間に受けてのことだったのだろうとふと思った。
夏に死んでいく患者の中には自分と蝉を重ね合わせている人もいる。
そして蝉がいとも簡単に死ぬように、自分も簡単に死んでしまうのだろうと、自己投影してしまう患者だっている。
彼女は、まさにそうだった。
彼女は、きっと蝉だった。
彼女の妹のすすり泣く声がやむ。瞼ははれぼったい。
これ以上泣いても無駄だと、彼女が帰ってくるはずがないと判断したのかもしれない。
母親はまだ泣きやむ様子もない。
ふと、彼女の死に顔を見る。
夏が大好きで、麦わら帽子と白いワンピースが似合う
―――嫌がる彼女に俺が半ば無理矢理着せて向日葵畑で記念写真を撮っただけだが―――とても白い肌だった。
白い肌? 本当にこんなに彼女の肌が白かったか、思い出せなかった。
死んだから、
もう血が通っていないから、白く見えるだけかもしれない。
窓を閉じたせいで、冷房の風がちょうど俺の前に吹き込んだ。
暑いよりは涼しいほうが好きだったが、俺は彼女を偲ぶ意味もこめて少しくらい暑さに浸ってもいいかなと思った。
病院を出ると、やっぱりカナカナが泣いていた。
俺も泣きたいというのに、先に泣かれてしまっているのだから俺はなんだか冷めてしまって、泣くこともできなかった。
ズルいよなと思った。先に泣くのも、そして先に逝くのも。
ともかく、ちょうど夏も終わろうとする頃に、
なつは死んだ。
#2
カナカナの声がとうに止んでしまって、クールビズとやらが終わってしまっても、暑い日が続いていた。
今年の夏は例年より、長くて暑い。
昔は暑いのが嫌いだったが、今は暑いのが苦というわけではなかった。
夏が俺の近くにいてくている、そう考えるようになったからだろう。
だから、電力がどうのこうの、温暖化がどうのこうのなんてどうでもいいことをいって冷房を弱めてくれるのは今の俺にとっては都合がいい話だった。
彼女が死んで、
十日くらいは多分俺は仕事で使い物になっていなかったはずだ。はずだ、というのはやってしまったはずのミスすら覚えていないからだ。
それでも俺の通常は戻ってきた。いつのまにか、彼女がもういないことを受け止めてしまっていた。不思議なものだ。
彼女が生きているうちは、もし今この娘がいなくなったら俺も死んでしまうかもしれないなんてメランコリックに考えていたのに、
結局俺は、生きている。
煙草は吸っている。
彼女にはずっと止められていたが、習慣になってしまうとなかなか止まらないものだった。何より、今となっては止める理由はもうないだろう。
飯だって普通に食べている。まずいものを喰えばまずいと言うし、うまいものを食べれば少しは幸せな気分になれる。
何かぽっかり大きな穴があいたままだけど、俺はこうやって生きているんだなーと思いながら煙草をまた吸う。
それはもしかしたら、夏を過ぎたというのに残るこの暑さが俺を癒してくれているからかもしれない。
ときどき不意に射した眩しい陽光や、少しずつ消えかけていく夏の匂いに、彼女を感じているからかもしれない。
特に今年は、残暑が厳しい。喜ばしい限りだ。
#3
11月になっても、暑かった。
どうも、異常気象とかそういうのではなく、俺だけが暑いらしい。
俺の周りはみんなとっくに生地の厚いスーツだし、天気予報も平気で氷点下の数字を出す。
道行くカップルはさもあったかそうに手を絡ませて歩いている。
雪が降ることもある。まださすがに積もってはいないが、この分だと時間の問題だろうと思う。
それでも俺は暑かった。
スーツなんて着て仕事なんてたまったもんじゃなかったけど、
変人に思われて友人をなくすのは勘弁だったので、頑張って俺はスーツを着ていた。それは苦行でしかなかった。大量の汗に、結局同僚に訝しがられた。
不思議なことだった。
そういえば、彼女が死んだあの日から俺は寒いと思ったことが一度もなかったのだ。
俺のなかで、彼女のことが少しずつ思い出に変わりつつあっても、
俺の中で夏はまだ生きているのだと思った。
夏の匂いも、夏の暑さも、全部俺の周りに残っているのに、
彼女の匂いや、彼女の体温はもうなにひとつ残っていない。本末転倒。悲しい話。
どうせ残るなら彼女に残って欲しかった。
もし、今彼女が現れたら俺はなんていうだろう。
やっぱり、愛してるとか、おかえりとか、そんな何気ないことを言えるのだろうか。
彼女は俺の中でどんどん夏になっていった。
思い出すのはなんだろう、
無理矢理に誘って観にいった向日葵畑、
はじめてセパレートの水着を拝ませてもらった海岸、
友達のおかげで最高の場所で見れたみなとみらいの花火大会。
あぁ、全部、夏だと思った。やっぱり、彼女は俺の中で夏だったのだ。
名前だけじゃなくて、本当に彼女は夏の女神で、夏の象徴で、夏そのものだった。
その歳の終わりに、俺は辞表を出した。
暖房とスーツと靴下に、いつのまにか耐えられなくなっていたからだ。
同僚は心配してくれたけど、まさか信じてくれるはずもないだろうし、
俺はアパートに半袖のTシャツで引篭る生活を始めた。
彼女と、入院する直前に選んだTシャツだ。
よくわからない見たこともない言語がデザインされたTシャツ。デザイン違いで3枚。
意味なんかわかるはずもないけど、俺が意味をつけることが許されるならば浮かんだイメージを訳にしてしまおう。
夏は終わっていない、と。
#4
ちょうど彼女が死んで1年が経というかというある夏の日に、俺は自販機の前で妙な女を見つけた。
この30度を超えるような日差しの中でその女はまるで原付に乗るときにでも着るような暑そうなコートを着て、
あたたかいコーヒーのボタンを押していた。俺は思わず声をかけてしまっていた。
「寒いですか?」
女は怪訝そうな顔で俺を見た。
「俺は暑いんすよ、ずっと」
ずっと、という言葉でやっと意味が伝わったのだろう。女はやっと口を開いた。
「私も、ずっと寒いです。ずっと私の周りだけまるで冬が続いてる気分」
「じゃあ夏はつらいだろ。奇異な目で見られて、それでも寒いし」
「ええ、夏は過ごしづらいです。でもそれはあなたが冬につらいのと同じでしょ?」
女ははじめてそこで笑顔を見せた。笑ってないときは少し地味な顔立ちだったが、笑顔はこの女の可愛さを引き立たせた。
俺はもしかしたらそこで1年ぶりの恋に落ちたのかもしれない。
真夏の日差しのなかで。
夏の陽のしたで。
夏のしたで。
夏に。
夏。
彼女の連絡先を聞いた。わざわざそんな格好であまり遠出はしたくないだろうこともあって、彼女の家はうちからそう遠くもなかった。
今度、鍋をしようと冗談ぽく言ったら彼女は笑ってくれた。
半そでに崩れたジーンズの男と、裏地に羽毛が見え隠れするコートの女。
周りからは一体どう見られているだろう。そう思うとおかしくて、不意に笑い出していた。つられて彼女も笑った。
笑顔が。
#5
3度目か4度目かのデートだった。
ちょうど彼女の誕生日が近いということで、みなとみらいの観覧車の頂上でプレゼントを渡したついでにキスをしようと目論んでいた。
彼女は10分くらい遅れてやってきた。
初めて会ったときと同じコート。10分遅れてくるのも前のときと同じだった。
その10分の間に自分とのデートのことを想像して楽しめるでしょ、なんて彼女はくだらない言い訳を前回はしていたが、
そういう奔放なところになんだか余計に惹かれてしまっているような気もする。
「ごめんごめん、電車が混んでてさ!」
電車が混んでも遅刻の言い訳にはならないなんてことをツッコむほど俺は野暮ではない。
そのまま彼女の手を掴んで観覧車の方へ向かった。
彼女の手はとても暑い。彼女にとって俺の手はとても冷たいらしい。
なんだか正反対で面白いよね、と言ったことがある。
そのときも彼女は笑った、俺のとても好きな笑顔で。
観覧車は混んでいなかった。
そりゃそうだ、今日は土日でも祝日でもないなんの変哲もない平日だ。普通のカップルは仕事に学業に勤しんでいる時間だろう。
二人とも引篭りに近い生活をしているから、別に平日だって簡単にスケジュールを合わせることができるのだ。これは嬉しい誤算であった。
「チケット2枚ください」
だいたいの場合は俺がおごることになっている。
こういうときにときどき、前の彼女とはワリカンが多かったなと思うことがあったが、そういうことを思い出す回数もだいぶ減ってきた。
チケットを買うとすぐに観覧車に乗れた。当たり前の感想だが、回っている、そして上っていく。俺たちは互いに改めて反対側に座った。
「前の彼女と、ここに来たことあるでしょ」
あんまり話したくないことを言われる。答えたくないので俺ははぐらかすことにした。
「ここから見える景色って一番好きな景色だから、そのとき一番好きなヤツと観たいって思うのは自然じゃね?」
我ながらはぐらし方が下手なうえにクサイと思った。これは少し恥ずかしい。
それでも彼女はなんとなく納得はしたようで、上機嫌な顔ではにかんでいた。
観覧車はゆっくりのぼっていく。
そのうち、本当に俺が好きな景色が見えてきた。
別にさっきのはその場限りのごまかしだけで言ったのではない。
本当に、俺は横浜の夜景が好きなのだ。
頂上に近くなってきたので、ポケットから包みを出す。なに、中身はあんまり高くもないただのネクレスだ。
引篭りにそんな高価なものが買えるわけがない。
「なに、もしかして誕生日プレゼント?」
「そ。ちょっとはやいけどな、誕生日おめでとう」
「ありがと、すごくうれしいよ」
彼女は包みを丁寧にあけて、どことなく「℃」という字に見えるモチーフのネクレスを取り出すと自分の首につけた。
本当はつけたところを見たかったけど、厚いコートのせいで、ネクレスは内側に隠れてしまっていた。
「ほんと、ありがと」
彼女の顔がゆっくり近付いてくる。
そして自然と、唇がくっついた。
彼女の唇は、寒かった。
途端に背筋がゾクゾクとして、寒気が体全体を襲った。
寒い。
寒い。
寒いってこんなに辛いものだったっけ? よくわからないが、身体中から熱が逃げていく感触がわかった。
これを寒いというのなら、彼女は今までよくこんな嫌な感触に耐えて生きることができたものだと思った。
いや、そんな考えをめぐらせる余裕も本当はないくらい、とにかく寒かった。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
温度が欲しい。
目を開けようとしたがまぶたが凍ってしまっていて開かなかった。
もし、俺がこのままこの感触に負けて絶対零度で凍え死ぬんだとしたら、彼女は600Kの高温で焼かれ死ぬのかな、
などとどうでもいいことが一瞬よぎったがすぐに掻き消えた。
耳も凍ったのか何も聞こえない。
口も凍ったのだろう、何も喋れない、いや喋れてたとしても聞こえないだけかもしれない。
俺は叫んだ。
「なつ!」
今までは夏がいた。夏がおれのまわりを包んでくれてたから、俺はずっと暑かった。
「なつ!」
叫んでも返事はない。そもそも叫べてるのかどうかもわからない。寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
寒さの中で、ひとつだけ悟った。
それは、夏が、死んだということだった。
そして、今までの熱もまとめて、俺からもっていって、それから、それから、それから…。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
寒い。