TRASH VANGUARD
肥溜めの先駆者。(直訳) ペットボトルロケットでぶっとばせ!
ショートストーリー06


終末思想アクセラレータ

走る。走らなければ殺される。
僕たちは走って逃げていた。誰から?  いや違う。何から? さぁ、わからない。
でもつかまると殺されることだけは直感的に理解していた。 そして僕たちの存在理由はただ殺されるためだけに あるのだろうということも直感的に理解していた。
「きゃっ」
Bちゃんが転ぶ。一瞬僕たちに動揺が走った。 けれども僕たちはすぐに走り出す。 Bちゃんは悲痛そうな叫び声をあげる。 でもBちゃんが立ち上がるまで待っている時間は僕たちにはなかった。 それに、こんなことを言うとBちゃんには悪いけれど、 奴らがBちゃんの死体を処理しているわずかな時間だけでも僕たちには必要だった。
「助けてください!」
Cが走りながら大声をあげる。僕だって大声をあげて助けて欲しい気分だった。 でもその声は誰にも届かない。そもそもここはどこだろう。 僕たちはずっと真っ暗闇の道を走り抜けているだけだ。 太陽は5日前に沈んだまままだ登ってこないし、登ってくる気配すらない。 それでもCは叫ぶ。
「助けてください!」
返事はない。この一帯はもう全滅しているのかもしれないし、 避難が済んでいるのかもしれない。よくわからない。なんでこんなことになっているのか、 なんで僕たちは逃げ回っているのか。そもそも何が起きたのか。 夢じゃないだろうかと僕は自分の頬をつねるかわりに思いっきりはたいた。 パーンという音が響く。痛みも、音も、いやにリアルだった。それでも叫ぼうとするCを僕は制した。
「無駄だよ。それに叫ぶと体力を使う」
どれだけ僕たちは逃げつづけているのだろう。 最初は20人ぐらいで逃げてきたはずが、 個体差の影響もあってもう僕を含めて7人しか残っていなかった。 いや、さっきBちゃんが死んだのでもう6人だ。体力はとっくに全員限界に来ていた。 走っているとはいえ、そのスピードはマラソンなんかよりもよっぽど遅い。 それでも追いつかれないのは僕たちを舐めきっているからなのか、 あるいはさっき倒れたBちゃんの処理にそれほど時間が掛かっているからなのか。 思考は身体の動きを鈍らせる。一瞬僕はよろめいた。 こんなことじゃ駄目だ。逃げ切ると決めたから。 必死で体勢を立て直して僕はまた走る。軸足が軋んだ音がしたけど、 まだ走らなければいけないと思った。 そして僕は考えることをやめて走ることに専念する。
僕たちの足音。僕たちの息切れ。
僕たちの足音。僕たちの息切れ。
背後から追ってくる音は聞こえない。でも安心したりしてはいけない。 まだ充分にBちゃんが生きているならBちゃんの悲鳴が聞こえてもいい距離なのに、 もう何も聞こえない。あぁ、まただ。僕は思考に気を取られたせいで再度よろめく。 思考しないと決めたのに、それ自体が思考になる。何も考えないことは難しい。 今度こそ僕はバタンと倒れこむ。みんなは僕を置いて走っていく。 そのスピードはとてもゆっくりに見えた。はや歩きでも充分に追い越せるスピード。 でも僕はそのスピードにすらついていけずこうやって倒れた。
動くことをやめた僕の足に何かが思いっきり刺さる感触がした。 電気的な痛みが脳髄を駆け巡って僕は大声を出そうとした。 だが、その前に喉元を何かで焼かれる感触がした。声は出なかった。 代わりにスーッと空気が漏れる音。次に僕の目の前は真っ暗になった。 視界も途切れた。僕は隣にBちゃんがいるのを感じた。 Bちゃんの後ろには、もうずっと前に殺されてしまったはずの僕の恋人がいるのを感じた。 あぁ、僕はもう終わったんだと思った瞬間、Bちゃんが耳元でささやいた。 鼓膜ももうとっくに焼かれてしまっているはずなのにBちゃんの声だけがやけにクリアに理解できた。
「まだ、5人残ってるよ」
僕はその言葉を聞いて、あぁ、そうだ、と何故だか思った。 まだ5人残っているから、僕は追いかけなくてはいけない。 僕を取り込んだ何かはさらに加速する。 この調子ならみんなが終わるのも時間の問題だと思った。 そういえば今何時だっけ、学校に行く時間じゃないっけ、 そうだ、学校に行かなくちゃいけない。唐突に僕の思考はどこかネジが外れ、 そしてもう何も考えられなくなって僕にとっての世界は今終わった。


For you While you are here

カタカタカタカタ。キーボードを打つ音。
ズザッ。重い拳で何かを殴ったような音。
カタカタカタカタ。
ズザッズザッ。
カタカタカタカタ。
ズザッ
 「うあぁ
 「うあぁ
 「うあぁ
KO。

「だーーー、うっせーー。なんだよその断末魔。スト2かよ!」
「古ぃよ」
「てか、わざわざ大音量でやらないでくれ」
 レポートをいったん諦め、PS2とテレビとにらめっこしている茶髪の女に言う。 彼女はその間も手を休めることなくストーリーモードを続けていた。 次のステージはどうやら中国のようだ。大音量で聞こえてくるBGMがなんともそれらしい。
「いーじゃん、大体ここ誰の部屋だと思ってんのよ」
「俺の部屋だ」
「もー、せっかくいいとこまで来てるんだから、いつも対戦で負けて悔しいからって邪魔しないで」
「だーーー、悔しくなんかねーよ」
「じゃあやってみる? また負けてみる?」
「あーうっせーうっせー、もういいよ」
「あー、悔しいんだ」
 憎まれ口しか叩かない女を尻目に、レポートの続きを始めようと目を凝らす。
「てか、何やってんの? レポート? まさかね」
「レポートだよ」
「人の写せばいいじゃん」
「写してんだよ」
 ズザッ、ズザッ。画面の中で中国の民族衣装を来た男を殴る音は止まらない。
「なんで写すだけなのにそんな時間かかってんの。いいじゃん、対戦しようよ。たーいーせーん」
「あーうっせーうっせー、終わるまで少しくらい待てよ」
 この女に言っても多分理解しようとすらしないだろうので言わないが、 写しているのは実のところプログラミングの課題であり、 そのまま写すとモロバレしてしまうので変数名を微妙に変えたり for文をwhile文に変えたりして誤魔化さなくてはいけないのだ。 しかし、このソースコードが回ってくるまでの間に幾度も このfor文とwhile文の変換はすでに頻繁に起きてしまっているので オリジナルと較べてどうなっているのかはもう誰にもわからない。 これを俺は皮肉をこめてfor-whileループと呼んでいる。
 「うあぁ
 「うあぁ
 「うあぁ
「せめて音量下げろよな」
「大音量でやるから爽快なんじゃん」
 その一言で俺はなんとなく、あーもういいやレポートなんて、と思った。悪い癖だ。
「わかったよ、じゃあ俺にもやらせてくれ」
「え、何を」
「ゲームだよ」
「うわ、びっくりしたー。てっきり私の体を狙ってきだしたのかと」
「ちげー」
 ちげーと叫びながら、彼女の体に覆い被さろうと倒れこむと彼女は鮮やかに避けてみせた。 そして俺が床に激突する音。痛々しい音がしたが、その音よりも叩きつけられた俺の身体の方が遥かに痛い。
「やーい、変態」
「あー、もういいからコントローラ貸して」
「どうせ勝てないよ」
「わかってるよ」


「んー、じゃあそろそろ帰ろうかな。叩きのめして満足だしね」
 20戦2勝18敗。その2勝もかろうじて携帯をいじっている隙に勝ったものだから、 純粋な勝利とはいえない。だが、全敗でなかっただけよかったとしよう。
「ん、電車もうないっしょ」
「ちゃりー」
「送ってやろうか」
「なに、体目当て?」
「あー、もういいよ」
「あはは。ま、大丈夫だよ」
 彼女は帰る準備をしながら適当に相槌を打つ。
「明日も誰かんとこ泊まんの?」
「そだね。誰もいなかったまたゲームしに来る。どうせ暇人でしょ?」
「はいはい、レポート終わらなかったけどな」
「私が来る前に終わらせといてよ」
 彼女は家出少女だと聞いた。いろんな男や友だちの家に着替えや必需品を置いて、 なんとか生活しているようだ。6畳一間の狭いながらも楽しい我が家にも、 彼女の荷物がちょっと大きなカバンに詰め込んであった。
「じゃ、帰るね。今日もセンキュ」
「あ、そうだ」
「ん?」
「名前なんていうんだっけ。前にも聞いたことあるけど」
「前にも言ったことあるよ」
「違う違う、苗字じゃなくて下の名前」
「下の名前も言ったことあるよ」
「へー、チエコって言うんだー。えらく古めかしくていい名前だね」
「もう、全然覚えてないじゃん」
「ごめん」
「サユリコだよ」
「それは嘘な気がするんだけど」
「嘘じゃないよー。ここ一週間くらいはその名前で通してるよ」
「あー、わかった。じゃあサユリコでいいよ」
「よろしくっ。それじゃっ、もう帰るね」
「あ、もうひとつ」
「なになに?」
「髪、染めた?」
「うん。もっと早く気づけよ」
 べー、と舌を出した彼女は、そのままハンドバッグを持って玄関を出て行った。 扉が閉まる小気味よい音がしたのを確認すると、 俺は鍵を締めてレポートの続きをやろうと思ったけれど、 彼女に負けたのが少し悔しいのでレポートの続きはちょっと練習してからやることにした。
こうしてまたひとつ単位が遠のく断末魔の声がした。 それはレベルの低いコンピュータにすらやられる俺のキャラクタの断末魔だった。


イレブンバック、レクイエム

最下位が前回の覇者にカードを2枚渡す。 代わりに僕が受け取ったのは3と7のカードだ。 偶然7を既に3枚持っていたので、僕はこれで労働者を代表しての革命の権利を得たことになる。
僕がまず4のカードを出した。それに続いてカードが切られていく。 スペード、スペード、スペード。
「スペード縛りー」
3枚目のスペードを出した彼がちょっと楽しそうに言う。 次の番の彼女は少しふくれっつらをして、パスと小さな声で言った。 きっと縛りでなければ出せるカードがあったのだろう。
僕の手番が回ってくるかと思われたその直前に、彼がスペードのJを出した。
「イレブンバック」
カードの強さが逆転する。残念ながら僕には出せるカードがなかったので、 パスと宣言しようとした瞬間、イレブンバックを宣言した彼がまた言った。
「おい、縛りバックじゃね?」
「縛りバック!」
「縛りバック!」
「縛りバック!」
彼の瞳がほんの少しだけ野性味を帯びたように感じた。 そして縛りバックコールの中で彼女だけが俯いて顔を赤らめていた。
彼は立ち上がるとロッカーを開け、縄を取り出す。 あごで彼女に服を脱げと合図したようだが、彼女が従わないので、 彼は彼女の長くて綺麗な髪を引っ張った。彼は手馴れた様子で彼女の服を一気に脱がすと、 持っていた縄で膨らんだ胸が強調されるような結び方をした。 亀甲縛りとは確かあんな縛り方じゃなかったか。 彼は次に、彼女に四つんばいになるように指示をした。 彼女の目は赤かったが、もう反抗することはしなかった。 彼はジーンズのチャックをあけると、そのまま四つんばいの彼女にあてがった。
「じゃ、俺パス」
「俺もパス」
何事もなかったかのようにゲームは続いていた。 一瞬僕のターンが飛ばされていたような気がしたが、そんなことはどうでもいいのかもしれなかった。

彼女の嬌声と彼がときどき彼女の肌を叩く音をバックミュージックに、 ゲームは淡々と進行していった。残っているカードは3とAが2枚ずつと、8が3枚に、 7が4枚。 場はトリプルを要求していた。僕はチャンスは今しかないと、8を3枚出して流れをぶった切る。
「次、革命ー」
ここぞとばかりに僕は7のカードを出して革命を起こす。 その瞬間にざわっと空気が凍る感触がして、 僕が嫌な予感を抱きながらも彼と彼女の方を見ると、 彼女は起き上がり自分を縛っていた縄を抜けると、カバンの中から長い突起物のついたパンツを取り出した。
革命というものは、そんな簡単に何も考えずに起こしていいものではなかったのだと僕は思った。 無血革命なんて奇麗事に過ぎない、革命とは結局エゴとエゴとがぶつかり合う戦争だ。 お題目なんて、戦場にはどこにもない。ただの殺戮。 そして彼はローションを塗ることさえされずに*される。 彼はあっというまに彼女に亀甲型に縛られ、よつんばいになっていた。 一瞬、痔という言葉が頭をよぎった。
あぁ、そしてその先のことは僕には恐ろしすぎて、あぁ、もう思い出すことすらできない。


灰色ジャンキーオブオパシティ

平べったい石を拾って、人差し指を上手く引っ掛けて回転させながら遠くへ遠くへと。 平べったい石はそのまま水面で跳ねて、7回くらい跳ねて、やがてずっと遠くで沈んだ。
「さすが元変化球投手」
「バーカ、どっちかというと速球派だよ」
川の向こう岸はもう東京だ。 俺が投げた石は健闘しながらも東京までたどり着くことなく多摩川の底に沈んだ。 あんな遠くまで届く豪腕の持ち主なんているはずがないから当然の話だ。
「東京まで届かねぇかな」
「届くわけねぇだろ」
「つーか、今日は何の用でこんな河川敷なんて青臭い場所に呼び出したわけ」
「別に。ただ、なんとなくつまんねぇからさ」
「何が」
「生きてんのが」
「誰だってそう思ってんよ」
「東京の人口ってどんくらいだっけ」
「いっせんまん」
「みんなつまんねぇのかな」
「みんなつまんねぇんじゃね」
俺はそのまま地面に座った。スーツの尻の部分にひんやりした感触があった。
「お前さ、仕事面白い?」
「みんなつまんねぇって言ったばっかりじゃん」
「大学に6年も通って必死こいて就職して、それでもつまんねぇとか、なんかつまんなくねぇ?」
「だから、つまんねぇんだってば」
加藤も俺に倣って腰をおろす。 加藤のワイシャツは心なしかくしゃくしゃによれているように見えた。 前はもっとしゃんとした格好をしてたような気がしたが、よく思い出せなかった。 俺も、加藤も、みすぼらしく映るんだろうなと思った。
「アッキーは元気?」
「別れた」
「やっぱりな」
「なんだよそれ」
「何年付き合ってたんだっけ」
「7年」
「別れたからつまんなくなったんじゃねぇの」
「べーつにー。一緒に住んでてもやることすらやってなかったし」
「そっか」
「今もダンディーな上司と不倫中」
「アッキー、ちゃんと社会人してんじゃん」
「不倫しないと一人前じゃねぇのか」
「くっだんねー」
「くだんねーな」
「火、貸して」
「もってね」
仕方なくカバンの中からライターを探す。 見つからないところを見ると、どうも会社のデスクに置きっぱなしにしてきたのかもしれない。 一度口にくわえた煙草をもう一度元に戻す。
「会社、辞めようかな」
「辞めてどーすんの」
「何も考えてねー」
「せっかく大学7年行って、わずか2年目で辞表か」
「無駄だったな」
「無駄じゃねぇよ。遊べたじゃん」
「あのころ、楽しかったな」
「んにゃ、つまんなかった」
「はっ、俺もだ」
「アッキーと原口がロケット花火打ち合って怪我したことあったじゃん」
「懐かしいな。3年のときだっけ」
「あぁ、お前だけ3年。みんな4年」
「うっせぇよ」
「あんときの写真、こないだ掃除してたら見つかってメランコリックな気分だ」
「原口元気かな」
「ドクターで元気にやってんじゃね」
「つまんねぇー」
「あー、火、貸して」
「だから持ってねーって」
「なに、煙草やめたん?」
「なんとなくな」
「健康に気を遣いだしたか」
「人間ドッグでちょっとな」
「バーか、人間ドックだよ」
「かわんねーよ。どっちも」
「つーか、吸ってても辞めてもかわんねーよ。死ぬときゃ潔く死ねよ」
「とかいって実際殺されそうになったらどうするよ」
「命乞いするに決まってんじゃん」
加藤は立ち上がり川の方へ向かって大声で奇声をあげた。 ちょっとよれたワイシャツ姿で奇声をあげるサラリーマン。 平日の真昼間からこれじゃ、俺が言うまでもなく日本は膿んでいる。
「俺やっぱ会社辞めよっかな」
振り返らずに加藤は言う。
「とめねぇぞ」
「とめろよ」
俺も立ち上がり、止める代わりに思いっきり加藤の背中を押した。 そのまま加藤は素っ頓狂な声を挙げて、前のめりに倒れた。 かわいそうに、ワイシャツには泥がたっぷりついただろう。
「かわんねぇよ。やめても、続けても、どうせ」
「あー。かわんねぇかもしんね」
「お前、その汚れたシャツのまま会社戻んの?」
「今日はもう上がってきた」
「真面目な社員だ」
「なぁ」
「あぁ」
「なんかやろうぜ。昔みたいによ」
「俺らいつも口だけだったよな。やりたいことあったはずなのに、結局なんもやってねぇ」
「大人になったらなんでもできると思ってたのになー」
「できること減ってんじゃん」
「なんもできね」
「なんにもできねー」
「俺やっぱさ、会社辞めるわ」
「とめねぇぞ」
「とめろよ」


ブランコ・グラン・ギニョル

運が悪かったとしか言いようがない。僕が何気なく、今日もこのちょうど夕日が沈む瞬間が鑑賞できうる公園で(この景色のよさが別の意味でさらに運が悪かったとも言えるかもしれない)、ひとりでブランコに乗って黄昏ているところを、彼女に見られてしまったことは、本当に運が悪かったとしか言いようがない。
しかもその彼女というのが、僕に前々から恋心を抱いているらしくいろいろな相談、例えば受験が心配だの部活と勉強が両立できないだの、僕に言わせればそんな悩みすら解決できない君の能力の欠如が一番の問題だということになるが、とにかくそんないろいろなちっぽけでどうしようもない相談をしてくる彼女だったのだから余計に面倒くさいことになったものだと思う。
案の定、僕を見つけた彼女は、微笑みながら僕の横にやってきた。客観的に見れば可愛いほうになるのかもしれないが、可愛くても僕にとってはただの馬鹿な小娘でしかない。それでもくだらない相談に乗ってあげたのは、クラスで波風を立てる方が後々を考えたときに面倒くさいからという比較の結果からであって、あぁ、僕は少し苛苛している。
「こんな公園あったんだー、夕日、綺麗だね」
彼女は何も考えてなさそうな顔で僕に言う。あぁ、そうだ。今、彼女の中では僕の、夕日の見える公園でブランコに乗るような子どもっぽいかわいい一面を見たことで何かしらの優越感が生まれているのかもしれない。そんな見当違いな思い込みは結構だが、それでもなんとなく気持ちが悪い。
「ちょうど下校時間に夕日が見えるからね」
僕は内心を見せぬようできるだけ優しい声で返す。夕日など別に何の興味もない。ただの見ようと思えば毎日だって見られるありふれまくった天体現象にしか過ぎない。太陽が沈むときに四角形に見えるなどといったそういう特殊な条件下でしか見えない夕日であれば少しくらい気にならないこともないが、少なくともこの公園から見える夕日などは、常識の範囲を逸脱しないただの夕日なのだよ。
「あたし、夕日って好きだなー」
そして出た、この何も考えないロマンチスト発言。僕はこういう意味も生産性も何も持たない理想論が大っ嫌いだ。稚拙な喩えではあるが、夕日が見れればお腹が膨れるのかい、といった問い掛けに通じる部分はある。無駄なこと以外の何者でもない。
僕は何も言わずただ、ブランコを漕ぐ。この流れだと彼女は僕の隣のブランコに座って同じように揺れることになるだろう。それだけでも面倒くさいが、これを何かの機会と見た彼女が僕に愛の告白をするなどといった展開になるとさらに面倒くさい。あぁ、本当に運が悪かったとしか言いようがない。せめて、彼女が馬鹿でない聡明な女性であったなら、僕も彼女を上手く扱おうと前向きに考えることができるのだが。残念なことに彼女はただの馬鹿な、未だにあんなに少ない積分公式すら覚えられないような頭の悪い子なのだ。これだけ成績が悪ければ当然本質的な意味での賢さだってカケラもない。
「隣いい?」
「空いてるしね、それにここでダメーって言っても座るでしょ」
「うん」
彼女は僕の揺れ幅に合わせるように、脚で地面を蹴った。振り子の長さが同じなのだから、こうなるとずっと彼女と僕は隣同士ということになる。
「なんか、最近クラスの雰囲気が受験んーって感じになってて嫌だなー」
「そうなの? あんまり変わった気しないけど」
クラスが受験を意識するのは当然のことだ。一般の進学校に通う高校生にとって本当に大事なトピックは自身の恋愛と受験、それだけしかない。クラスは受験に向かって動いている。それはとても自然なことだ。それを嫌だなんていうのは、大人になりたくないなどと馬鹿なことをほざいた挙句その症状をピーターパンシンドロームなんて笑うしかない病名をつけて正当化しようとしているフリーター達と全く同じだ。せっかく進学校に来ておきながら、フリーターと同次元の人間、彼女はそんな人間か。実に興味が湧かない。
「模試が返ってくるときとか、女子は結構聞き耳立ててるよー。そういうあたしも第一志望A取られちゃうと気にしちゃうとこあるしね。あたしはまだいいときでC判定なのに、A判定かーって」
ため息が、出そうになる。君が気にすべき相手はクラスの中のたった何人かの同じ大学を受けるライバルじゃなくて、日本全国の受験生たちだ。クラス内で足を引っ張ったところで誰のメリットにもならないことは自明だ。
「わかるけどねー。でも、クラス内でそんなギスギスしててもさ、他の高校には同じ大学受けるライバルがたくさんいるわけだし、どうせなら協力して勉強したりとかさ、そういう風にした方が効率いいと思うよ」
と言いながら、この女にはそれすらできないだろうと思う。大域的な効率を重視すべきところで、目先の虚栄心や嫉妬心に負けて結局損をする人間だ。
「ま、人のこと気にするよりしっかり覚えること覚えた方がいいって。ありきたりな言い方だけどさー、この時期は悩んでる時間がもったいないよ」
そして君の相手をしているこの時間も僕にはもったいないのだけどね。
「だよねー、わかってるんだけどね。やっぱりなんか寝る前とか考えちゃうよ」
「ラジオとか聴きながらなんか解いてみるとか。この時期のラジオは結構受験生に優しいよ。受験生の投稿も結構読んでくれるしね」
「そっかー。なんか聴いてるの?」
「木曜深夜のミッドナイトオールナイトとかね。パーソナリティが結構好みでさ」
「だれだれー?」
「栗原亜季っていう、なんていうのかな、多分知らないよね」
「うーん、聞いたことないよー」
「歌手で、結構声が透明感あって前から好きだったんだよね。んで、今年4月からパーソナリティになってたからずっと聴いてる」
「投稿とかもしてたりする?」
「恥ずかしいから言わない」
「えー、教えてよ」
「パス。ラジオネームあててみてよ」
投稿してるのは嘘。ラジオを聴いているのは本当。でも特に栗原亜季という歌手が好きというわけではない。クラスメートの秀才連中に何故か人気がある歌手のようなので、彼らと話を合わせるための必要な学習だ。受験勉強など、真面目に自分でやるものではない。彼らが予備校に通って持ってきた解法をいくつか暗記してそれがどういう思考過程から導かれたのかを理解するだけで十分だ。そういう意味で彼らは僕にとって有益だから、僕も彼らと歩調を合わせるためにそれなりの努力をしているわけだ。
彼女はちぇーとか可愛らしく舌打ちをして見せたが、それは僕を苛つかせるだけでしかない。そして沈黙が流れる。ゆらゆらブランコは揺れながら、僕と彼女はまだ隣同士だった。
「それにしても、ブランコとか好きだったんだ」
「まぁね。子どもっぽいからあんまり人に見られたくないんだけどね」
「ちょっと意外かもー」
「明日からあんまりからかわないでね」
「はいはいわかってるよー、えへへー」
彼女は満足そうに笑う。そしてまた沈黙。僕がブランコに乗る理由は単純に思考をするためには家にいるよりも、この場所で風に当たっている方が気持ちがいいからだ。彼女はまだこの街にいなかったから知らないだろうが、というかひょっとしたらクラスメイトの誰一人として知らないかもしれないが、この公園は僕らがまだ3歳くらいの頃に殺人事件が起きたことがある。ちょうどこのブランコの真ん前で、幼児と、若い母親が殺された。犯人はもちろんすぐに捕まったが、過去にそういう痛ましい事件が起きた場所であるというのが僕の心を落ち着かせてくれて、思考がはかどるというものだ。決して彼女が言う子どもっぽいものとは相容れない。いや、逆に子どもっぽい残虐さに惹かれているという意味で取るならば、僕は確かに子どもっぽいのかもしれないが。
「あのさ」
沈黙に耐え切れなくなったのか、彼女が口を開く。何か決意をしたような顔。あぁ、もし僕が予想したとおりなら本当に面倒だ。
「うん」
適当に相槌を打つ。
「あたしさ」
「うん」
適当に相槌を打つ。
「好き、なんだよね」
「うん?」
適当に相槌を打つ。
「好き、だったんだよね」
僕は鈍感な人間であることにしているので、ここでは意味がわからない振りをしておく。こんな面倒くさいことになったんだ、彼女が苦しむ様くらい見ないと割に合わない。だが、別れたあとに無駄に苦しませるのはよくない。彼女の弱さからすると、明日は学校を休むかもしれない。ないとは思うが、もしかしたら友だちに相談されるかもしれない。そうなると余計に面倒なことになるから、別れ際には苦しみを与えられない。ということで僕は精一杯今は彼女を苦しめることにした。恋愛に苦しむのは若い人間の特権だ。その特権を感じさせてあげようとする僕はむしろ優しいくらいでちょうどいい。
「ごめん、ちょっと意味わからないんだけど」
「あー、うーん、えっと」
彼女はどもって沈黙。沈黙が30秒。今度は僕がどもって見せよう。
「えーっと、なんていうのかな、うーん」
そんな僕のどもりを聞いて彼女はまた沈黙。今度も30秒の沈黙のあとに、また僕がリードしなくてはならない。そんなに相手にすべて委ねないといけないくらい弱いなら告白なんて考えるなと言いたいが、相手である僕もたかだか男子高校生だ。高校生の恋愛にならこれくらい甘っちょろい方がいいのか。それにしても面倒くさい話だ。
「もしかして、俺のことが、ってことなのかな」
彼女の顔が赤くなるのが見てとれる。紅潮というのか、この変化は少し面白い。彼女は必死で、少しだけ頷いて、そして小さな声で言った。
「うん」
そして頑張って続けて言った。
「好きです」
僕が何も言わないでいると、彼女は顔をあげて僕の方をじっと見つめてきた。そんな素直で正直で無防備な気持ちをぶつけられても僕は別に何も感じない、苦痛なだけだ。なぜなら僕が彼女に興味がないからだ。
「えーっと、一応、俺さ、付き合ってる子いるんだ、よね」
どもりながら応える。一応、本当。付き合っているという言い方は本来正しくないかもしれないが、幼馴染の子と一応僕は付き合っているということになっている。とはいっても、外でデートなんて面倒なことはしないし、僕が性欲を処理したくなったときに呼んだりするだけの関係だが、幼馴染はそれで満足なようだ。この女と違って彼女は頭がいいから、そういう割り切った付き合いもできるということだ。それでもまだ完全には割り切れてるわけではないらしく、逆に僕に愛想を尽かされたくないからそれで満足しているように振舞っているのはバレバレだが。
この女が僕に興味を持たせるとしたらそれはただ、生きている人間であること、というだけだが、僕は比較的行動範囲が広がる大学生になるまでは少なくとも目立ちたくはないので今は何も彼女に対してしてあげられることはない。
「あー、そっか、やっぱいたんだ」
「ごめん」
「ううん、謝らないでよ。惨めになっちゃうじゃん」
惨めだよ、最初から。
「なんか、あんまり言いたくなかったんだけどさ。お互い受験だから、実はあんまり上手くいってないよ。だから余計にね、受験中は恋愛とか難しいな、って最近思ってる」
これは嘘。僕も彼女も受験には興味がない。ただの軽く超えていくべき踏み台だと理解している。ただ、こう釘をさしておくことで、彼女がいるから振られたのではなく受験が今は大事だからせめてそういう話は受験が終わってからにしようよ、と彼女に伝わってくれればいい。彼女がさらにそこで、自分のために受験を頑張ろうと言ってくれたと拡大解釈をしてくれれば僕としては助かるのだが。
「うん、ごめんね、大事な時期にこういう話しちゃって」
「どっちも大切な話だけど、恋愛はいつでもできるけど、受験は今しかチャンスないわけだから、今はみんなと一緒に受験乗り切ってみようよ、って思うんだけど、うーんなかなか言葉にすると難しいや、ごめん」
受験が終わったあとで僕と一応遠いところに行ったなら彼女が自殺してくれても一向に構わない。むしろ、そのときは積極的に自殺の理由を作って本当にそこまで導けるのか実験してみたいくらいだ。それは興味深い。僕はここではじめて彼女に興味を持った。だから、受験が終わる頃に、上手い具合にプレッシャーを掛ける練習としてありがたく練習として使わせていただくことにしよう。こんな馬鹿な女一人、武力に頼らなければ殺せないようでは、どのみち僕はこの先どこかで滅びてしまうようなレベルの人間ということになる。
「なんか、期待をもたせるような言い方でちょっと悪いっていうか、あんまり好きじゃないんだけど、やっぱり受験が終わってからもう1回ここで話さないかな。もちろんそのときまで俺のことを好きだったら、っていう自分勝手な前提付きだけどさ」
彼女の瞳は少し潤んでいた。そして少し考えていたようだが、小さく頷いて、うん、と言った。そのときに僕は君を操って、天国に導いてあげよう。それも僕の名前が遺書に残ったりしないような方法をしっかり考えて。考える期間が充分すぎるほどにあることがむしろ難易度を下げているようでつまらない気がしたが、演習問題としては、ちょうどいい。
彼女が去ったあとの公園で、僕はひとり笑いがこみ上げてきて、自分が興奮していることに気がついた。帰ったら彼女を呼んで性欲を処理しよう。僕はほんの少しの間大きな笑い声をあげて、そして一度だけ強く地面を蹴って高く舞い上がると、そのまま地面に向かって気持ちよく飛び降りた。


セブンスドーム #00

起きて、身だしなみを整える。一日分のエネルギーを摂取するために錠剤を噛み砕く。無味無臭。今日は素数の日なので、一日中雨が降る。傘なんて前世紀的なものなんか使わなくても濡れない方法はいくらでもあったが、傘を使うことを推奨されているので僕はおとなしく傘を使う。このレトロな形状は嫌いではなかった。
玄関のドアを開ける。人工的な雨の音。傘は嫌いじゃないが濡れるのは嫌いなので、僕は身体の周りにとても薄い水を弾く膜を張る計算を行う。この制服というやつも、最初から方程式の織り込まれた糸で編まれているのなら水くらい弾いてくれたっていいはずなのに、といつも思う。いつもの計算、前回の計算結果の一部を残しているので、詠唱は1秒も掛からずすぐに終わった。生ぬるい膜に包まれる感覚。計算結果は毎回微妙にズレてくるはずなので、何十回かに一回かは最初から計算しなおさないといけなくなる。今はそれくらいのペースで済むが、成長期の頃は結構頻繁に計算誤差で雨に濡れていたことをふと思い出した。こういうことがふと頭に浮かぶのは、何かが起こる前兆であることが多い。そんなことを考えて歩いていたせいで、前から3人のクラスメートが歩いてきた。3人とも傘を差していない。あぁ、妙な予感というものは当たるものかもしれない。当然ではあるが、僕にはそういう僕の理解の範疇を超えているものは制御できるはずがないのだ。
「ハルキじゃないか」
真ん中にいたアカリが僕に声を掛ける。スラっとした長身の優男、髪の毛は黒く程よい長さ、視力が悪いわけではないのに演算力向上のために伊達眼鏡を掛けている。女の子のような名前だが、確かに女性のような体つきではあるが、れっきとした男だ。
「どうしたんだ。こんな時間に、こんな方向に、傘も差さないで」
僕はアカリに詰問をする。アカリの両隣にいるのは、サエとナキ、二人ともタイプは違うが、スカートがよく似合う。
「答えなくても予想はついてるんだろ?」
「あぁ、そろそろじゃないかとは思っていた。まさか雨の日を選ぶとは思わなかっただけだ」
アカリはサエとナキの二人を連れてこの小さな世界を出て行く、ということだろう。誉めるのは癪に障るが、アカリは確かに頭がいい。そんなアカリが予定を切り上げ出て行くというのだから、前にアカリから聞いた話というのは彼なりに結論が出たということだ。
「世界を記述する準備はもう出来たというわけかい」
「あぁ、もう出来た」
「図書館の本はもう全部読んだのか? このあいだ話していたグランベーリル積分の単調収束定理に関する考察はもう済んだということか」
「いや、あれはまだ終わっていない」
「ならこの街で学ぶことはまだあるんじゃないのかい? それとも、よっぽど急いでここから去った方がいいと結論付けたか」
「そういうことだ。お前だって気づいている癖に、わざわざそういう言い方をするのは推奨しないぜ」
アカリが言う理由というのは、この街がもうすぐ停止するのではないか、ということだ。彼は彼なりにその結論を出したらしいが、僕もそういう兆候が見られるのは気づいていた。空家に置いてある日記の記述を見ると、100年前と今では晴れの日の光量がわずかに減っているということだし、実際小さい頃と較べてもその変化は微細ではあるが確実に見てとれる。もっとも、そんな微細な変化だけではない。先月の24日、つまり約数を8つも持つような素数とは程遠い日に雨が降った。そんなことはここ100年では起きてないはずだと僕たちは知識として持っている。こんな大きな変化があればどんな馬鹿だって異常がおき始めていることに気がつくはずだ。もちろん、機械と計算によって制御されたこの街には微小確率Δpで異常が起きることだってもちろんある。しかし、この Δpは1億年に1回も起きないような大きさで制御されているから、結局異常値であることに間違いはない。僕が怪しみだしたのは、その事件のあとだが、アカリはどうもその前から異常に気がついていて、サエとナキに声を掛けていたらしい。
「そうだな。僕もあと1ヶ月もしないうちに出て行くつもりだ」
「キリとマコトを連れて、か」
「そうなるだろう」
チームを組むなら3人が理想のサイズ。4人以上だと、誰か1人が死んでもなんとかなるという甘さが生まれる。6人を超えたらもうその中で実質トップ3を除く残りはすべて捨て駒として扱うのが最善となる。一方1人だと何かのミスで即死するし、2人でもカバーしきれない状況は数多い。3人だと、誰かが死ぬとかなり厳しい状況になるという適度な緊張感を保ったまま、上手く役割分担をこなすことができる。
「俺は本当はハルキを連れて行きたかったんだぜ」
「そういうことはサエとナキのいないところで言ったほうがいいんじゃないのか」
「実現しないことがわかって言ってるからな」
「あぁ、僕もそう思う」
「パーティにリーダーは2人はいらない。いつか言ってたよな」
「あぁ、僕がそう言った」
繰り返し癪に障るが、ハルキは頭がいい。それはそのままリーダー、あるいはブレインとしての強さを意味する。となりにいるサエとナキは残念ながらそういうタイプではない。
サエの発想力には惹かれるものがあるが、単純計算が得意ではない。つまり、様々なタイプの事象を詠唱で起こせるが、そのそれぞれの威力自体は3次ぐらいが最大となるだろう。ソロではなかなか生きていけない。
一方ナキは理解力と応用力に欠ける部分があるが、単純な演算という部分では僕やアカリを凌ぐ。基本的なカテゴリーの5次程度の詠唱なら1分以内で済ませてしまうだろう。サエよりは一人でやっていけるとは言え、ブレインに使われてこその破壊力を持つタイプだ。
アカリはうまくバラけさせたパーティを組んでいる。
「本当に残念なんだぜ。なんたって、ハルキは俺の次に頭がいいからな」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
「次に使えそうなのはキリだけど、キリは間違いなくハルキが連れて行くことになる」
「そういうことだ」
サエとナキは冷たい目をして僕を見るだけで何も言わない。元々話す仲ではなかったから仕方ないのかもしれないが、そんなに露骨に冷たい目で見られるのは気持ちのいいものではない。
「まぁ、ハルキも世界に出たら、どこかで出会うだろうよ。お互い死ななければ、な」
「あぁ、僕が世界に出たら、どこかで出会うだろう」
「お互い、敵同士で出会わなければいいなと思うぜ」
「あぁ、敵同士で出会わなければいいなと思うよ」
「それじゃ、俺らはもう出て行くぜ。餞別だ」
そう言うと、アカリはポケットから出した金属製のライターを僕に投げつけた。通常のライターとしてももちろん使えるが、対象空間の特定組成式にエネルギーを与えて火をつけるような演算子が表面には組み込まれている。惜しむらくは、その計算アルゴリズムが単純なもの過ぎて、次数の増加に鋭敏に反応して計算時間が指数的に増加してしまうことと、入力がめんどくさすぎることでで、結局実際の役には立たない。アンティークだ。
「じゃあ僕はこれを渡そう。餞別だよ」
といって僕は差していた傘を折りたたむとアカリに渡した。実は傘の表面にはその部分だけ水を弾くような演算が同じように組み込まれている。しかし、もちろん今のアカリとサエとナキには不要なものだ。
「アンティークだ。大切にしてくれよ」
傘を失っても僕は濡れない。いや、前と較べて少しだけ伸びた髪の先端だけは水に濡れた。
「それじゃ、グッドラック」
傘を差したアカリはサエとナキを連れて僕の横を通り過ぎていった。
僕は最後にアカリに言う。
「背、また伸びたんだな」
アカリは振り向かず、手を振って僕に応えた。僕は少しその場で立ったままアカリたちが見えなくなるまで待って、そしてなんとなく脳の一部で行っていた演算を止める。途端に僕の身体はビショ濡れになった。ビショ濡れになること自体がアンティークだった。昔の言葉に、水も滴るいい男、という言葉もあったではないか。
僕は濡れたまま学校へ向かい、キリやマコトや他のクラスメイトに濡れたことをからかわれながら、窓際の席で水を少しずつ乾かしながら読書に励むのだった。無駄なことは好きではないが、たまには、こういう日があったって構わないだろうと思った。


まっしろのあさ

「このまっしろい世界には、僕と君しかいないんだ」
 彼は私の目を真っ直ぐに見ていつもと同じ台詞を繰り返す。 思わず笑みがこぼれてしまう。同じ台詞を繰り返すしか能のない彼の中身にだ。 彼はまっしろい世界と形容するけれど、実はこの世界はもう真っ白なんかじゃない。 私の荷物にあった24色の絵の具を間違えて全部混ぜて形容のしがたい汚い色になってしまった アラビアゴムとグリセリンのゲルをそこら中にぶちまけたからだ。 そういえば小さな頃にも同じことをして両親に怒られた記憶がある。 あのときの色はこんな色じゃなくて、もっと青みが少なくて、緑も少なくて、 そうだ。血の色にそっくりだったんだ。
 私は裸だった。いや、裸という言葉は普通服を着ていないことを指すのだから この場合は意味合いが違うかもしれない。 私は、その意味を超えた意味で、つまり広義の意味で、裸だった。 私は私で、私でしかなくて、そういう自己言及にも何も意味はなくて。

 世界は「あの日」に変わってしまった。 あの日がいつだったかは認識していない。 世界はいくつもの細胞に分解され、その中の一つに私と彼がいたのだった。 ほかに世界があることをどうやって認識したかはわからない。 なんとなくあるだろう、それくらいの曖昧さだった。 私も彼も「あの日」に壊れた。私は身体中の皮膚と器官を亡くした。 彼は考える心を亡くした。そんな二人がテーブルの上で談笑しているそれだけの小さな世界。 小さい? 小さいかどうかはわからない。遠くに歩いていったことはないから。 彼はとても従順だった。私が何かを言うとすぐに素直に応えたし、 そうでないときは定められたことを口にしていた。だから私たちは喧嘩をせずに済んだ。 でもそれはとても孤独なものだったのかもしれない。

 私の絵の具は魔法の絵の具。明日になれば中身がまた戻ってる。 描いた絵はそのまま。だから私はこの世界に空を描くことに決めた。 高くて届かないところは彼に手伝ってもらった。彼は私と同じくらい不器用だったから、 雲の絵がただのまるにしか見えなかった。私がもっと雲らしく描いてよと言って、 彼がどんなに頑張っても、そのまるはまるにしか見えなかった。 空を描いたせいで青い絵の具がなくなってしまった。だから今日はもうおしまいだった。 でも次の日にはまた空の絵を描けた。何日も何日も掛けて、私と彼は空の絵を描いた。 気がついたら空は完成していた。あのまるかった雲も、ちゃんと積乱雲の姿かたちになっていた。 私は彼と手を合わせて喜んだ。

「このまっしろい世界には、僕と君しかいないんだ」
 それでも彼は悲しそうに言う。 私は彼にもう真っ白じゃなくなった世界を見て欲しかった。 床は私が癇癪を起こしたときに散らばった汚い汚い色に塗られたままだったけど、 空はもう青くて、どこまでも続いていたから。私は彼に、空が見たい、 って言うように言った。そしたら彼はぽつんとただ一言だけ。

 世界は空と白と汚いものだけだった。 ある日私は壁に長方形とドアノブのようなものを描いた。 ノブはまるで本物のようだった。だから私は次の日、 もっともっと本物に見えるように、木目のある高級そうなドアを描いた。 不意にドアノブがあいた。ドアの向こうにも白い世界が広がっていた。 だけどその世界の空は悲しい色だった。私は思わずその世界に足を踏み入れる。
「このまっしろい世界には、私と私しかいないの」
頭上から声が聴こえた。そこには私がいて、私を見つめていた。 その私とこの私はそっくりで、 違いは右手に持っているのが筆であるか彫刻刀であるかくらいしか見つからなかった。 私は悲しい色がなんで赤い色をしているのかをやっと理解することができた。 でも私がその意味を理解する頃にはその私がドアの向こうに入ってしまってもう二度とドアが開くことはなかった。
「この世界には、私しかいないの」
私は寂しく呟いた。筆はあるけど、絵の具は向こうの世界だった。 もう私には何も描けない。私しかいない。 この世界はどこまでも続く赤い空と小さな赤い水たまりしかなかった。 赤い水たまりはとても綺麗で澄んでいて深くて、私は、 あぁ、私がこの色に惹かれたのも仕方がないな、と1人で納得し始めていた。


かこのなまえ

足元に蝉の死骸。僕らは立ち止まる。
「珍しいね、蝉」
日差しは例年通り異常気象とも言える強さで、僕らに襲い掛かっている。普段はあまり汗をかかないナコの白い肌を汗の雫が伝う。ナコですらそうなのだから、僕はもう汗だくだった。道路の先はゆらゆら揺れていて真っ白に見える。ナコの制服も白、僕の制服も白。空の毒毒しいほどに清清しいまでの青色以外は、全部が揺れて全部が白に見えた。
「ほんとだ」
僕はしゃがみこみ、蝉の死骸をまじまじと見つめる。まだ原形を留めているから、死んだのはほんのちょっと前なのかもしれない。最近、蝉をあまり見なくなった。申し訳程度に時々遠くで鳴いているのを聞くくらいだ。そもそも蝉がどんな風に大合唱するものだったか僕は思い出せないことに気がついた。幼い頃はあんなに五月蝿いくらいだと思っていたのに、不思議なものだ。
「あっちの方で鳴いてるね」
僕は神社の方を顎で指して言った。
「みにいってみる? 少しは涼しいかもよ」
七代神社の境内はこの辺では珍しく大きな林になっていて、木陰に入ると涼しさを感じる。この辺でこの季節ならいつでも蝉の声が聴ける数少ないスポットでもあった。
「いってみよっか」
ナコは自動販売機に硬貨を入れながら言った。ガタンと缶が落ちる音がして、出てきたのはラムネだった。
「カノ君も飲む?」
「じゃ、ひとくちちょうだい」
「やだー、間接キスになるじゃん」
ナコが一瞬べーと舌を出した。
「ラムネでいいよね?」
僕の返事を聞かないうちにナコは自動販売機からもうひとつラムネの缶を取り出していた。
「サンキュ」
「おうっ」
昼過ぎの日差しの下では何もかもが気だるい。熱の篭ったそれでいて乾いた大気が僕らの体から水分だけでなくエネルギーまで奪っていっている気がする。授業で習った熱はエネルギーそのものだという話とまるで正反対だ。
「最近、ますます物忘れが激しい気がする」
唐突にナコが言う。
「僕の誕生日も忘れてたしね」
「もう、あれは悪かったって言ってるじゃん」
僕は茶化したけれど、物忘れが激しい気がするのはナコだけでなく僕もそうだった。事実、僕は誕生日の次の日にナコに言われるまで、自分の誕生日を忘れていたのだ。
「でも、なんかどんどん忘れていってる気がするんだ」
「忘れたい幼少期のトラウマがあるんじゃ」
「残念っ、うちは平和な家庭でした」
「うちも平和だった」
視界にゆらゆらゆれている鳥居が見えてきた。赤い鳥居のはずなのに、ここからだとまだ白く見える。
「川口商店ってあったじゃん」
「うん」
ナコの家から学校に行く途中の五差路に川口商店はあった。僕の家からでもさほど遠回りにならずに経由できるので、僕もよく通って20円のクジを引き続けた記憶があった。
「あの向かいに何があったか覚えてる?」
向かいにあった建物。言われてみると向かいにあった建物どころか、川口商店の姿かたちもはっきりとは思い出せないことに気がついた。そういえば20円のクジは一体何のクジだったんだろう。あの頃の僕は何を求めてあんなに何度も引き続けたのか。
「わかんない」
「私もわかんない」
「なんでわかんないのかなぁ、あんなに何度も通ったはずなのに」
「私も」
ナコが少し眉をひそめたのがわかった。
「忘れるたびに、この街がどんどん狭くなってくんだ」
眉をひそめたままナコが言う。僕にはその正確な意味はわからなかったが、彼女の表情と言葉の端からニュアンスだけは理解することができた。気がする。
「元々狭いじゃん」
「そうだけど、そういう意味じゃなくて」
訂正。どうやらニュアンスすら理解できてなかったらしい。
「お父さんがね、いっかいだけ街の外に連れてってくれたことがあるの」
「へぇ、意外だね」
「でしょ。あの堅くて真面目なお父さんが連れてってくれるとは思わなかった」
「で、どうだった?」
「ん」
「街の外は」
「覚えてない」
「だと思った」
ナコはもうラムネを飲み干していた。
「それに、今思うとお父さんが本当に堅くて真面目そうだったのかもあやふやな気がする」
「3年くらい前の話なのにね」
「そ、たった3年前なのにもう忘れちゃったんだなぁ」
「そんな寂しそうに言うなよ」
「だって、寂しいじゃん。そんなの。お父さんもお母さんも生まれたときからずっと一緒にいたのに、どんな人だったかも思い出せなくてさ」
「でも、平和な家庭だったんだろ」
「うん」
「なら、それだけでいいじゃん」
「そんなもんなのかな」
「そんなもんだよ」
「でも、それもいつまで覚えていられるか」
「ナコ」
「ん、呼んだ?」
「呼ばないと、名前忘れちゃう気がしたから」
僕は小さな声でナコ、ナコと何回か繰り返した。ナコはそれを見て微笑んだ。
「うん、忘れない」
「絶対っ、忘れないでね」
「約束しよっか」
「私も絶対カノ君の名前忘れないから」
「嘘ついたら?」
「嘘つかない」
神社の鳥居にほのかに赤みが射してきた。ゆらゆら揺れるのは相変わらずだけど、その先に涼しそうな林が目に入って、なんだかほっとした。
「名前は忘れないけど、忘れないって約束を忘れちゃうかもしれないよね」
ナコは寂しそうに言う。白い頬をやっぱり汗の雫が伝っている。
「忘れたこと自体も忘れてしまって、いつのまにかカノ君って名前が何だったのかも忘れてしまうかもしれないよね」
僕もラムネを飲み干す。こんな暑い日には、やっぱり爽快な炭酸がよく合うものだと思う。
「ホントに、名前覚えてられるかな、なんか自信なくなってきたや。あはは」
そして笑う。その笑顔は本当に儚そうで、次の瞬間には消えてなくなってしまいそうで、事実、やっぱり消えてしまっていた。僕は一瞬ナコを抱きしめようかと思ったが、汗でべとつく制服がぎりぎりのところで理性を押さえつけてくれた。
「忘れないって思ってくれることが一番大事なんじゃないかな」
「あはは。今日のカノ君、なんか優しいね。おまけに恥ずかしい台詞も多いね」
「ほっとけ」
僕らは忘却に怯えていた。いつからだろう。この街は、そういう場所で、そういうものだった。川口商店のことを僕らが忘れてしまったから、川口商店はなくなってしまった。両親のことを僕らが忘れてしまったから、両親はいなくなってしまった。この街は僕らが覚えているものだけしか残っていない。眠る前に考えるときがある。この街は、誰かの箱庭なのだろうかと。そんなことを箱庭の住民が考えても仕方がないのに、考えてしまう。僕らは忘却に怯えていた。
それは僕らが忘れたことに気付かないうちに、突然やってきて、そしてなかったことになってしまう。
一度日記をつけたことがあった。毎日毎日思ったことを全部書き留めた。ある日、日記帳を開いたら僕の知らないことばかりが書いてあった。僕の日記の中で、僕は知らない人と談笑し、知らない人とじゃれあっていた。そこにいる僕は僕の知ってる僕じゃなかったから、僕はその僕を忘れた。だからその日記帳はもうなくなってしまった。
「もしさ」
「うん?」
「僕が、ナコの名前を忘れたら」
「忘れたら?」
「もういっかい、教えてくれないかな。ナコの名前を」
「私の名前を?」
もしかしたら無茶を言っていることはわかっていた。 僕がナコの名前を忘れたときには、ナコは消えてしまっているかもしれないのだ。
「ナコの名前を」
「うん。もういっかいだけ、教えてあげる」
ナコは多分とびきりの微笑みを僕に向けてくれたんだと思った。でも、もういっかいだけじゃないことを、多分僕は覚えていた。僕は以前にナコの名前を忘れたことがあることを、多分僕は覚えていた。そしてそれがとても悲しいことだったことも、多分。