2002.08.25 Sunday 19:13:37 佐々木さん

「明日ヒマ?」
佐々木さんがそう切り出した。 このあとに続く言葉はだいたい決まっている。
「シフト変わってほしいんだけど無理かな?」 「ライブのチケット取ってきてくんない?」 「お金貸してくんない?」
個人的には、明日ヒマがあるのとお金を貸すのとは全く関係がないように思えるのだ が、 とにかく僕にとって有益なことは佐々木さんのご機嫌を取る以外に何もないので、今 日こそは断ることにした。
「すいません、明日はちょっと」
言えた。何という充実感であろうか。 僕は今はじめて佐々木さんのお願いを断ったのだ。 世の中にこれほどまでに爽快感を味わえることがあったとは。
「そう、残念だなぁ。デートに誘おうと思ったのに」
佐々木さんの顔偏差値は60くらいだと思う。 喋らなければもっとモテるのにと思う。 そんな佐々木さんからデートに誘われたのなら、 男として行かなければならないのではないだろうか。
「あ、明日ヒマでした。思い出しました」
さっきの爽快感も何のその。 下半身で物事を考えてしまうガキな僕は、そう答えていた。
「あ、そう、ヒマなんだ。 じゃあチケット取って来てくんない? ラジオアイソトープって知ってるでしょ?インディーズの」
やられた。 最初から佐々木さんは僕をデートに誘う気などないのだ。 佐々木さんは大人の女だから、ガキの扱い方をよく知っているのだ。 なんだ、ラジオアイソトープって。 かっこいいつもりなのだろうか。 放射性同位体なんかさっさとアルファ崩壊してしまえ。
「わかりました」
悔しさと虚しさと憤りと悶々とした気分で僕は答えた。 ちょうどいいところに後輩の水城くんがやってきたので、 なすりつけることにしよう。
「明日ヒマ?」
佐々木さんが準備室の方に行ってしまったのを見計らって 僕は水城くんに声を掛けた。
「明日はちょっと忙しいっすねー」
しめた。ここは佐々木さんの真似をして誘導尋問してやろう。
「そう、残念だなぁ。デートに誘おうと思ったのに」
「あの、俺、男とデートする趣味ありませんから」
やられた。佐々木さんは女で、僕は男。僕は男で、水城くんは男だったのだ。 これが性別の壁というものだろうか。 愛に国境も年の差もないというのに、 性別の壁だけはあるのだろうか。
そんなことはどうでもいい。 僕はホモではないしゲイでもないので、 愛に性別の壁があったって別にかまわないのだ。
かくして僕は佐々木さんの勅命で、 チケットを取らなければならなくなったのだった。 放射性同位体なんか さっさと音楽性の不一致からベータ崩壊してしまえ、と本気で思った。
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2002.08.30 Friday 21:09:19 常駐

「ん?何それ」 「嘘発見ソフトなんだって。JAVAのヤツ」 「へー、どうやって使うん?」 「常駐させといたら、電話中に勝手に判断してくれて、ここんとこが光るみたい」 「ふーん」 「ユウキ、結構嘘つくよね」 「あ?もしかして俺と電話してるときも使ってるとか?」 「だって常駐してるんだもん」 「そっか、じゃあしゃあないよな」 「しゃあないよな、じゃなくてさー。ユウキ嘘つきすぎなんだよねー」 「嘘ついたことねぇって、俺ってほら、誠実な人じゃん」 「この間ペットのタロくんが風邪引いたからデートいけないって言ったじゃん」 「いや、違うって、あんときは先輩に無理矢理コンパ誘われてさ。断れなかったん だって」 「ふぅん。ってことは嘘ついたんだー」 「だからさー、嘘つかなきゃどうしようもないときだってあるでしょ、ね?」 「美樹と一緒に街歩いてたのは、何でもないって言ったよねー?」 「いや、違うって、美樹ちゃんがさ無理矢理誘ったんだよ。うん」 「何もなかったって言ったよね?」 「いや、その、ほら、据え膳食わぬは男の恥って言うし、仕方なかったんだよ」 「何もなかったって言ったよね?」 「だーかーらー、ごめんってば」 「ふぅん、まぁいっか。私だって嘘ついてるし」 「ほら、な、人間誰だって嘘ついて生きてんだよ。人間って高度な生き物だから なぁ。で、ちなみにどんな嘘?」 「ユウキに比べたらたいした嘘じゃないよ」 「だからごめんって謝ってるじゃん。ね、教えてよ」 「ホントにたいした嘘じゃないよー?実はね、嘘発見ソフトなんてないんだー」
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2002.09.03 Tuesday 14:36:53 将来の夢

「だからさ、聞いてた?」 「え、何を?」 「今寝てたでしょ」 「寝てないよ。中小企業に勤めて、美人とは言えないけど奥さんをもらって 決して毎日が楽とは言えないけど、それなりにやりがいはある生活をしてるときに、 満員電車の中でいきなり見知らぬ女子校生に手をつかまれて、この人痴漢ですって叫 ばれて 仕事と家庭を失う人生をシュミレートしてただけだよ」 「それを寝てた、って言うの。だいたいシュミレートじゃなくてシミュレートだっ つーの」 「間違えただけじゃん。そういう室井さんこそグロテスクとグロステクの違いがわか らないくせに」 「だから、そんなことを言いたいんじゃなくて。ほら、みんな合唱の練習中に寝てる アンタに怒ってるわけ。気付いてた?」 「俺?悪いけど歌うまいよ」 「うまくてもうまくなくてもいいから、ちゃんと歌ってください。わかった?」 「歌いたいのはやまやまなんだけどさ、ほら楽譜がないんだよ。すっげぇ残念」 「じゃあ私のあげるから」 「そしたら室井さんがわかんなくなるじゃん」 「私はもう全部暗記してるの。残念でした」 「うわ、字ぃ下手すぎ」 「アンタよりうまいつもり」 「違うんだって、俺には夢があるんだよ。一流企業に入って、社長の娘と結婚して、 ゆくゆくはその会社を手に入れて、富と名声を手に入れて、そして死ぬ前に 富も名声も手に入れたが私の人生はなんとつまらない人生だったのだろう、って後悔 したいんだよ」 「合唱コンクールで優勝すらできないヤツにそんな夢が叶うと思う?」 「思う」 「じゃあ私の夢も教えてあげるわ。結婚して平和な生活をしてたんだけど、 突然夫の弟が蒸発して、保証人になっていた私たちは借金苦を強いられて、 それでも自己破産はしないって決めたんだけど、やっぱりどうしようもなくなって、 自己破産しようとしたときに、合唱コンクールの優勝盾を見て、 もう一度だけ頑張ろうって思うんだけど、ヤクザさんに事故に見せかけて殺される の。わかった?」
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2002.09.09 Monday 16:22:36 雪は降っているか

「もしもし、野村ですけど」 「あーもしもし、宮下ですけど、もしかしてユウキくん?」 「うそ、宮下!?超久々じゃん。半年ぶり?」 「うーん、だいたいそんくらいかな」 「北海道ってどうよ。やっぱり寒い?雪降ってる?」 「いや、いくら北海道でも夏には降らないって」 「なんだ、つまんねぇの」 「どう、元気でやってる?」 「あー、まぁ一応ね。そっちはどう?」 「へへー、そこそこ楽しいよ」 「彼氏とか出来た?」 「それは聞いちゃダメです。詮索禁止っ」 「じゃあ諦めますよ」 「そういえば、そろそろ文化祭じゃない?」 「だねー。去年の文化祭覚えてる?」 「覚えてるよ。って、一体何を?」 「ほら、俺バンドやったじゃん」 「やったね。へたくそなくせに無理しちゃって。ラジオアイソトープやったんだっけ?」 「やっぱり忘れてて。」 「あはは、まだ続けてんの?」 「一応続けてるけど、一ヶ月に一回くらいだし」 「ダメじゃん」 「で、一体何の用事なん?」 「いや、野口くんに用事あったんだけどさ、間違え電話しちゃっただけ。そんじゃね」 「間違いかよ」 「そだ、今年もバンド出るの?」 「オーディションで落ちたよ」 「そっかー。それじゃね」 「おう、バイバイ」
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2002.09.12 Thursday 14:51:36 球宴

「あーあ。どこかに頭が良くてカッコ良くて野球が上手い人っていないかなぁ」 「ここにいるじゃん」 「そういうあなたは、校内模試で下から数えた方がはやい成績を取って、夏休みの間 に5キロ太った元サッカー部の松川くんじゃないですか」 「露骨だなぁ」 「いえいえ」 「でも俺、野球上手いし。クラスマッチのときの見たっしょ?」 「草野球の3番打者」 「なにかご不満でも?」 「イエス。野球が上手いって言うのは、有名校の4番でエースでキャプテンのような 人のことを言うの。決してサッカー部のチャンスに弱いフォワードのことを言うん じゃありません」 「露骨だなぁ」 「いえいえ」 「うちの弱小野球部じゃ全然面白くないよ」 「バカ。弱小から勝ちあがるのがカッコイイんじゃん」 「そりゃカッコイイけどさ」 「でも1年目は地区大会決勝戦でサヨナラボークで負けちゃうの」 「それ、何年か前にあったよね」 「そしてナインは一生懸命練習をして、エースはついに魔球を覚えるのよ」 「ほー。どんな魔球?」 「フォーク」 「普通だなぁ。せめてカミソリシュートとか」 「カミソリシュートって何?」 「………いや、知らないなら良いけど」 「そして迎えた2年目の夏!」 「ってかさ、前から野球好きだったっけ?」 「うん」 「今年優勝した高校ってどこか知ってる?」 「記憶にございません」 「最近なにか読んだ?」 「H2」
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2002.09.15 Sunday 22:47:56 アナフィラキシーショック

「うわ、まだ紫陽花って残ってんだ」 「ほんとだー。ちょっと枯れた感じがアートかも」 「いや、どこが」 「ほら、ここらへん」 「触らなくて良いから。それに枯れてるって言うより腐ってるって感じだしさ」 「それって超失礼なんですけど」 「それよりあっちの向日葵とかはどうよ。こっちの方がアートじゃない?」 「ミツバチたかってんじゃん」 「追い払えば?」 「刺されるじゃん」 「刺さないって。だいたいミツバチって一回刺したら死ぬし」 「マジで?」 「マジで」 「スズメバチは?」 「刺しまくり」 「なんかその言い方ってエロいんですけど」 「そう言う風に感じるほうがエロいんですー」 「ミツバチってちょっとかわいそうだね」 「使い捨てって感じ」 「スズメバチは?」 「洗浄液で洗えば何度でも使えるヤツ」 「ふーん。」 「あの、それはコンタクトレンズだろ!ってツッコんで欲しいんですけど」 「そういえば知ってる?コンタクトのお化けの話」 「いいよ、どうせくだらない話だろ。通勤の時間帯にOLが落としたコンタクトが、 早足で歩いていくサラリーマンに踏まれて悔しくてお化けになったとか。親切で探し てくれてる人がついうっかり踏み潰しちゃって悔しくてお化けになったとか。夜はず すときについうっかり流されてしまって悔しくてお化けになったとか」 「なんだ、知ってたんだ」 「いや、知らないけどね」 「ほら、ミツバチ追い払ってよ。刺さないんでしょ?」 「ちょ、待てって。俺、昔刺されたことあるからダメなんだって。ほら、アナフィラ キシーショックってヤツー?」 「すっげぇカッコ悪」 「仕方ねぇじゃん。それにコンタクトなんかよりよっぽどメガネの方が似合うっ て」
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2002.09.20 Friday 20:11:48 魔の十三階段

「七不思議って知ってる?」 「世界七不思議?」 「うちの学校の七不思議」 「へー、こんなボロ学校にも七不思議ってあったんだ」 「ボロだからあると思うんですけど」 「それってやっぱり七つ知ったら死ぬとか?」 「うん。でも六つしかないから誰も死なないよ」 「親切な七不思議だなー。で、どんなんがあるの?」 「えっとー、美術室の石膏像が夜中に動き回るんだって」 「あー、なんかそれ聞いたことあるかも」 「で、不思議に思った生徒がある日チョークでヴィーナス像と机の上に線を引いたん だって」 「思い出した。それアレじゃん。コナンであったヤツじゃん。もういいよ、次」 「わがままだなぁ」 「次のお話を是非よろしくお願いします」 「真夜中の職員室で、いちまーい、にまーい、って数える声がしたんだって」 「それって昔からある怪談じゃん」 「で、不思議に思った生徒がある日、職員室に忍び込んで待ってると、永野先生が やってきて、赤点のテストの枚数を数えてたんだって」 「そういえば、永野って私文クラスの担任だっけ。」 「ねー、怖いよねー」 「赤点は怖いけどな」 「印刷室にシュレッダーあんじゃん」 「あるねー、ぼろぼろの」 「で、赤点のテストを処分しようとして間違って自分の手を切り刻んで死んじゃった 生徒の手首が夜な夜な動き回ってるんだって」 「赤点にこだわるなぁ」 「僕の赤点はどこだぁー」 「赤点のテスト探す必要ないじゃん」 「本当は28点だったんだけど、採点ミスで24点になってたんだって」 「本気でどうでもいいし」 「音楽室のピアノが、夜になったら勝手に鳴り始めるんだって。 しかもすっごい悲しそうに弾くんだって」 「うわー、すっげーありがち」 「それをベートーベンの肖像画が泣きながら見守ってるんだって」 「ってかさー、うちの学校って音楽室あったっけ?」 「ないよ。それがこの話の怖いトコなんじゃん」 「なんか疲れてきたよ」 「3階のトイレに花子さんがいるんだって」 「入り口から三番目?」 「そうそう。すすり泣く声が聞こえるんだってー」 「ま、女子トイレに入ることないからどうでもいいけど」 「いや、男子トイレなんだよ」 「花子さん女の子じゃないの?」 「知らないよ。実は男の子だったかもしんないし、ただの変態女かも?」 「くだらない話ばっかりだなぁ」 「はい、おしまい」 「ちょっと。まだ5個しか聞いてないけど?」 「5個しかないのになぜか七不思議なの。これが最後の不思議」
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2002.09.23 Monday 18:34:09 潜伏期間

「どうでした?」 「別れちゃいました。2週間」 「相変わらず短いね」 「だって、なんかへたくそだったんだもん」 「キスが?」 「キスも」 「教えてやれば良かったのに」 「そんなに心広くないです、私は」 「だろうね。500円も返さないくらい心が狭い人だからね」 「あー、忘れてた。今返そっか?」 「返せるものなら返してください」 「ってか、なんか別れようって言ったら、僕のどこが悪かったんですか、ってしつこ いの」 「泣く子も黙る佐々木先輩」 「いや意味わかんないしね」 「どこが悪かった、ってキスが下手やったんでしょ?」 「一回目で舌入れてくんなっつーの」 「それって下手って言うの?」 「そのあとが下手だったの。具体的に言おっか?」 「遠慮しときます。佐々木さんと違って結婚するまで俺は童貞を守るの」 「いつの考え方なんだか」 「どこが悪かったか教えてあげたの?」 「さすがに無理っしょ。下手だからって言ったらすっげぇ傷つけそうだし」 「傷つくね」 「でしょー?」 「その人、次の彼女にも同じ理由で振られたりして」 「もうちょっと純情な子と付き合えば良いんじゃん」 「そういうキャラだった?」 「うーん。なんか罰ゲームとかでナンパさせられてそうなキャラだった」 「もうちょっとわかりやすく言って欲しいんだけどなー」 「ごめん、490円しかないから明日まで待ってくれる?」 「じゃあ490円で良いよ」 「あーごめん、480円しかなかったから明日まで待ってくれる?」 「本当はいくらあるん?」 「100円」 「明日利子付きで600円お願いします」
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2002.10.04 Friday 21:24:52 午前七時十五分

「おはようございます」
教室に入ると僕はそこそこ大きな声で挨拶をした。
2、3人のクラスメートはすでに席について宿題の模写に追われている。
どれだけ模写しても成績が上がるわけでもないのに、もう受験生だと言うのに、彼ら
は一体何をしているのだろうと思う。
そんなことをしても無駄だと思う。そんなことをするくらいなら学校になんか来なく
ても良いと思う。
そうだ。いっそみんなで風邪を引いたことにすれば学級閉鎖になるのではないだろう
か。A香港型だと思う。危険だ。
いつものようにそんなことを考えながら僕はそっと青木さんの後ろに近づくのだっ
た。
「日々課題終わってる?」
「あー、英作終わってないかも」
「とりあえず貸してよ」
「はいはい、ちょい待って」
青木さんの書く文字は読みやすいと思う。でも筆記体で書かれているからちょっと読
みにくい。
それでも、ときどきkとhを読み間違えるのは決して青木さんのせいではなく、僕の
せいなのだ。
「やべ、家に忘れてきたかも」
青木さんはちょっと抜けているところがあると思う。
小学校の先生が、宿題を家に忘れたならやってないのと同じだとよく言っていたが、
まさにその通りだ。
青木さんはもっと反省すべきだと思う。
とりあえず僕は青木さんの側を無言で離れ、岡谷の後ろにそっと立った。
「日々課題ならねーよ」
「別に期待してないし」
売り言葉に買い言葉を返しながら岡谷のジョリジョリの頭をこする。僕の日課だ。
いつもならこんなことを繰り返しているうちに、英語が得意な沼口さんがやってくる
ので、
結局僕は沼口さんに見せてもらうことになるのである。
だったら青木さんにお願いしたり、岡谷の頭をこする必要もないのだが、きっと僕の
日課なのだ。
「おはよー」
7時15分。時間ぴったり。いつも沼口さんはこの時間にやってくる。例外はあんま
りないと思う。もちろん今日だってそうだ。
沼口さんにさりげなく挨拶を返しつつ、僕は交渉を始める。
「日々課題やってきた?」
「うん、見る?」
「いくら?」
「60円」
こんなことをもう1年半はやってきてるわけで、僕は実に32880円もの大金を沼
口さんに払ってきたことになる。
沼口さんが毎日60円という半端な金額を請求するのは、60円で自販機で大きな
ジュースが紙コップ1杯分買えるからだろう。
僕はファンタのメロンにグレープを混ぜるのが好きだが、岡谷はそんな僕の嗜好をこ
とごとくけなすのだ。
「数学の日々課題は?」
「やってないー、ってか学校に忘れたし」
「見る?」
「いくら?」
「60円」
こんなことをもう1年半はやってきてるわけで、僕は実に32880円もの大金を沼
口さんからもらってきたことになる。
僕は60円払うたびに世の中ってのは意外と上手く出来ているもんだなぁ、と思うの
だった。
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2002.10.08 Tuesday 22:46:21 二者面談と愛のうた

「何か言われた?」
数学準備室から肩を落としながら帰ってきた僕の前に、一ノ瀬さんはいきなり現われ
た。
どんなことを聞かれたのか興味津々な様子なので、僕はディテールを避けておおまか
に話してあげることにした。
「このあいだのマーク模試に文句言われて、第一志望と、推薦受けるか聞かれただけ
だよ」
「たったそんだけ?」
「そんだけ」
一ノ瀬さんはそう言うと、なーんだ、つまんない、と言いたげなしかめっ面をした。
ちぇっ。自分の面談までまだ日があるからってなんと余裕たっぷりなのだろうか。そ
んな一ノ瀬さんは教え子と結婚した室井先生にこってり絞られて凹んで泣いてしまえ
ば良いと思う。
そして僕はそんな一ノ瀬さんに駆け寄って、心配ないよ、一ノ瀬さんなら受かるっ
て、と優しい言葉を掛けてやるのだ。
でも現実には一ノ瀬さんは、勉強なんかしてないように見えるのに成績は良いわけ
で、教え子と結婚した室井先生に凹まされる可能性はあまり高くはないのであった。
「でも、その割には長かったよね」
「そう?」
「なんか言われたでしょ」
「何を?」
「だって、模試悪かったもんねー。日本史の59点はどうにもなんないでしょ」
「別に良いの。本番では倫理受けるから」
実は模試のあとにこっそり倫理をやってみたら、60点だったのでどっちでも変わら
ないと思ったが、
一ノ瀬さんという女は人の弱みを見つけると、とことん突いてくる人なので、決して
弱みを見せてはならないのである。
前に国語で偏差値40を切ったときは、一ヶ月以上に渡って嫌味を言われた記憶があ
る。
でももしかしたら元はといえば、一ノ瀬さんがひどい風邪でどうしようもなくて赤点
を取ってしまったときに、僕がずっと赤点女と冷やかしたせいかもしれない。
「どうやった?」
元野球部の岡谷が話し掛けてきた。
僕は岡谷のジョリジョリ頭をこすりながら、なにもなかったよ、と答えた。
そんなことより、せっかく一ノ瀬さんと話しているのに邪魔をするなと思った。岡谷
はいつもそうだ。いつも僕が女子と話していると邪魔をする気がする。
思い返すと少し胃がムカムカしたので、いつもより頭をこするスピードを上げてやる
ことにした。
ルート2倍の速さでこすれば、2倍の痛みが岡谷を襲うような気がする。
「どこ受けるんだっけ?」
「東京大学」
「は?前からバカはバカだったけど、いつからそんなにバカになったのですか?」
「正確に言うと、東京の大学なんだけどね」
「私立?」
「国立は無理っしょ」
僕に頭をこすられつづけている岡谷が、この親不孝者めと小さく呟いた。ずっとこす
り続けてきたせいだろうか、心なしか岡谷の頭が汗ばんできた気がしたので僕はこす
るのをやめて、手をタオルで拭いた。
「東京ってことは独り暮し?」
「独り暮しって憧れない?」
「そりゃ少しは憧れるけどさ、なんかタカシって小心者だから向いてなくない?」
「どこらへんが?」
「NHKの集金を踏み倒す勇気すらなさそう」
「それって踏み倒しちゃいけないと思うんですけど」
「誰か独り暮しするのー?」
岡谷の後ろから黒木さんがヒョイと顔を出して見せた。
いつもはコンタクトなのだろうが、今日はメガネを掛けている。この間と比べると、
髪の量が減っている気がしないでもないが、もしかしたら髪を切ったのだろうか。
だが、ここでうかつに、髪切った? と尋ねてしまって、実は切っていなかったとし
たら、僕は黒木さんをものすごく傷つけてしまわないだろうか。
それこそもし泣いてしまったらどうすれば良いのだろう。普段から強気な一ノ瀬さん
ならむしろ泣き顔を見てみたいとは思うが、奥手そうに見える黒木さんの泣き顔はあ
まり見たくはない。
というか、一般的に女の子の泣き顔は見てはいけないものなのだ。
「あれ、髪切った?」
デリカシーが僕より少し欠如している岡谷が、僕よりも先に尋ねてしまった。なんと
いうバカなのだろうか。もう少し話の流れを待って言えば良かったものを。あぁ、黒
木さんが泣いたらおまえのせいだ。
「うん、切ったよ。わかるー?」
あぁ、しまった。僕が先に聞いてやれば良かった。今、黒木さんの中で、岡谷は細か
いところに気がつくヤツとして、好感度が4ポイントほどあがってしまったはずだ。
あぁ、僕はなんというバカなのだろうか。
「一応、俺が独り暮しするつもりー」
「へー、自炊とかできるの?」
黒木さんはいかにも料理とかが上手そうなタイプに見える。もちろん人を見た目で決
め付けてはいけない。ここで僕が、黒木さんって料理が上手そうだよね、と不用意に
言って、私あんまり上手じゃないの、と泣かれてしまったら僕はどうすれば良いのだ
ろうか。そんなことになったらどうしようもないわけで、僕はその窓から飛び降りな
ければいけなくなる。
だがしかし、こんなことを考えている間にまた岡谷が何か口出しをして、好感度をあ
げられても困る。
ここは適当に話の流れを変えるべきだ。
「やろうと思えばできるんじゃない? そういう黒木さんは?」
つい間違って、黒木さんに話を振ってしまった。僕はこういうときのとっさの状況判
断が苦手な気がする。仕方がない、今度こそ話の流れを変えてしまおう。
「見た感じ、一ノ瀬さんとか自炊しなさそうだよね。ってかできなさそう」
「うわ、それって私に超失礼じゃない?」
「コンビニ弁当で済ませそうだよね」
「最初のうちはそうかもしんないけど、私は一週間と三日で飽きて、それで仕方なく
自炊を始めるの」
「得意な料理は?」
「カップラーメン」
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