Na Mg Al Si P S Cl Ar / K Ca

七曲 ドロップス 暗く

■ 1180円の合宿



いつ以来だろう食卓にこんなに品が並ぶのは。
最近はパチンコも負けっぱなしだったから外食にも行ってない。
もちろん手料理なんて論外だ。
コンビニで食いつないでおきながらさも料理得意そうに見せている女子も多いだろうが私は違う。
そんな鮮やかなキャンパスに生息している女子を鬱陶しいと感じると同時に羨ましくもある。
そりゃあ同じ女子としては。
とはいえ今は豪勢だ。お世辞にも美味しいとは言えないけども。
「よく食ったな。学食で1000円以上使うやつ初めてみたよ」
「アンタの金だからね」

私はこのままでいいのだろうかと思う時もある。
実は今もそうだったりする。
ファッション雑誌を見たり化粧品にお金かけたり歌番組をチェックしたりすべきなのかもしれない。
「そうだぞ。俺の奢りだ。感謝しろよ」
時々そういう義務感にかられる。
修了する頃はもう24も半ばだ。
女として一番輝かないといけない時なのかもしれない…なんて考えてたらきりがなくて、
夜中に起きてビール買いに行って朝までゲームしてることなんて日常と言ってもいいくらいだ。
「あんたね。点5だったら今ごろ焼き肉だったんだからね」
今日もこうして素っぴんで昼も過ぎてから登校し、肺とか胃とか肝臓とか乙女心を傷つけている。
少しずつでも着実に。
隣の文系キャンパスに生まれていればあるいは違ったのかもしれない。
憧れと嫉妬は否定できないけれども、彼女たちは無人島に漂流して生きるか死ぬかの瀬戸際でも肌の悩みを気にしているに違いない、といったように、密かに見下し小馬鹿にしている自分もいる。
いつからか私は俗世と自分の世界とに線を引き、見えるものを片っ端からモノクロームに塗りつぶした。

「そうでした。忘れてましたすみません」
コイツはその塗り忘れた部分だ。モルツのCMの様にコイツだけなぜかオリジナルの色が認識できて、それはそれはとても不自然だ。
「しかし俺に勝つって女としてどうよ」
コイツさえいなければもっと違う大学生活になっていたかもしれない。
女の子の友達たくさん作って、合コン毎週組んで、もちろん処女だって捨てられたかも。
23で処女ってどうなのよ。
「格好いいでしょ。女雀士って。おまけに美女だし、秀才だし。お金は持ってないけど」
コイツはなんのために私が牌の打ち方を覚えたのか気付いてない。
よく出る台を覚えたのか気付いてない。
煙の味も、焼酎の味も、バイクの乗り方も、科学の面白さも、徹夜の醍醐味も。
気づいているとしてこの仕打ちなら、空気の読めなさすぎにあきれる。
「綺麗で秀才は認めるけど、麻雀強くてもお嫁にはいけないと思うがね。まぁ金はなんとかなるだろうが」
冗談なのか本気なのかコイツは人の気も知らずに言う。
その度に傷ついたり勇気づけられたりしてるわけだが、そんな自分がスイーツ(笑)みたいで嫌気がさす。
悲しいかな、結局女であることはどうやっても否定できない。

「明日提出のレポート終わってないでしょ?今から一局どう?負けた方が二人分書くということで」
私はニコ中でもアル中でも雀中でもない。
ただコイツに毒されているだけだ。
「そんな時間あるなら書けばいいって話ですよ」
「でもやるんでしょ」
「まぁな」

コイツは毒だ。毒とは害だ。
こうして私は今日も幸せな時間を手に入れる。

■ 曲がる夜



幼稚園児だったガキの頃にジャングルジムから飛び降りて大怪我して県病院に入院した。同じ部屋にはマユミさんというキレイな女子高生がやっぱり怪我して入院してて不思議と仲良くなって一回だけ手紙を交換してそれっきりになった。ガキだし手紙なんて書いてられなかったんだわな。このあいだ兄貴と飲んだとき、別に美人じゃなかったよ思い出補正じゃねーのとか言うから思いっきり殴った、そしたら殴られた。怪我で入院したらまた女子高生と会えるかなって言ったらバカじゃねーのって言われた。バカだなー俺は。なんか涙でてきたけど、別にフラれたからとかそういうのじゃないから。

■ 泣き笑い



親への手紙を読んでいる新婦の声は掠れ、震え、頬を伝わる涙は濃い赤のカクテルドレスに着地し、さらに深く濃い赤のしみを作っている。ブライダル雑誌のCMでよく聞く優しく囁くような歌をBGMに、感謝の台詞がくり返される。

覗きこんだファインダーがゆらぎぼやけるoやばい泣きそうだ。ワイシャツの袖で拭う。暗い会場の中でもらい泣きでもしたら、ブレてしまうではないか。あの人がこんなに泣きじゃくっているところなんか、この先二度と遭遇できないだろうに。絶好のシャッターチャンスだというのに。

いつだったか婚約の噂を耳にしたとき、
「早くないですか?なんで結婚するんですか?もしかしてデキ婚ですか?」なんてきいたことがあった。
すると先輩は、拳骨が鳩尾に入り悶絶する僕を見下ろしながらこう言った。
「今である必要を挙げれば相手にそう望まれたってだけだけど、今じゃダメな理由は全くないね」
そのあと先輩は
「祝ってくれるの。ありがとう。さぁ宴だ」
と難癖をつけ(棒読み)、僕の首根っこと財布をつかんで大学近くの居酒屋に入った。

「お金だってかかるでしょう?」
「結婚は紙切れ一枚でできるんだよ。知らなかった?」
「式は挙げないんですか」
「挙げるよ。6月に。知らなかった?」
「お金かかるでしょう?」
「相手は既に社会人だし、うちの両親は金持ちなんだよ。知らなかった?」
「ならなぜその娘は後輩にたかるんですか」
「そういう星の元に生まれたからでしょう、少年が。私が貧乏なのとは関係ない」
饒舌極まりない。これはいい具合に酒が入った証拠だ。付き合いが長くなるとこういうところもわかるようになるし、こちらからからかうともできるようになる。意外と可愛いのだ。
「指輪見せてくださいよ」
「ほれ」
「あれ?これ、前してたのとあまり変わらないですね」
先輩はずっと左手の薬指に指輪をつけていたはずだ。曰く男除け。彼氏が本当にいるかも怪しかった。
酒が出さえすればどんなとこにでも現れる性質とあの指輪のタッグは、特に合コンでタチが悪かった。顔を見て初め盛り上がる男達は、指輪を見て落胆する。
そして2時間後酒癖の悪さを知って幻滅する。男除けはいつも二段構え。

「まぁね。変わらないと言うか変わってないと言うか。石が本物になった」
「残念ながら僕には違いがわからないですけど」

結局は男がいたわけで、わざわざイミテーションの指輪をしなくても説明すれば良かっただろうと思う。でも、あるのとないのじゃいろいろと手間が省けるのは明白だし、トラブルメーカーが自分なりにうった策をなんだろうと好意的に解釈しよう。

「私にも違いがわからなかったのだよ。つい最近までずっと」
「え?比べてもわからないんですか?」「比べるも何も、比べる物がないんだ。イミテーションのつもりだったのだよ、本当に。指輪も彼氏も」
「ふむ」
「ある日気づいたらいつもより石が輝いてる気がしてね。調べてもらったら本物に変わってた。ガラスだったはずなのにね」
「彼氏さんが変えたんですか?」
「そう。いつ変えたのかきいたんだけど、なんと3年も前だったよ」
「えー。3年も気づかなかったんですか。相変わらずどんくさ…。なんでもないです。いや本当に。痛い、痛いっす勘弁してください」
「わざわざ特注で似せて作っておいて、私が寝てる間にすり替えたらしい」
「なんでまた?」
「さぁ?サプライズのつもりだったみたいだけど私があまりに気づかないからね。ほっといたって」
「それがエンゲージリングになったと」
「最初からそのつもりだったかは知らないけどね。『ようやく気づいた?3年前からだよ。じゃ言おうか。結婚してください』だよ?案外あっさりなんだねプロポーズって」
「で、なんて答えたんですか?」
「『え?今?』『うん。今』『わかった』って感じ」
「うわっ冷めてる」
「仕方ないじゃん。いきなりだったんだから」
「でもそれでイミテーションから本物の愛に変わったってわけですね」
「そうじゃなくて…うーん…いつの間にかすり替わってたって方が正しいかも」
「なるほど」

と頷きながら思う。気づかぬうちに相手を好きになるなんてことは本当に起こり得ることなのか。
どんくさい先輩ならあるのかもしれないが、下心が先走る男には理解し難い。
想像してみるけどなかなかイメージが浮かばない。例えばそれは自己暗示と似たようなもので、本物だと思えば水だって薬になる。
思い込むことができる、それこそが本物だとするならば、なんと悲しいことではないか。結婚とは、大人の恋愛とはそういうものなのかも、そう結論づける事にする。
「あいつ私が気づかなかったらどうする気だったんだろう」
「石のサイズを徐々に大きくするなんてどうですか?」
「あと3年もすれば自己破産だね」
「それでも結婚します?」
「どんな仮定してんの。さすがの私でもサイズが変われば気づくって。少年とは違うのだよ」
「ところで先輩?なんか僕のグラス、暈が増えてません?」
「あら?気づいた?3分前からだよ。じゃあ言おっか『私の式の写真を撮って。ただ働きで』」


「…幸せになります。沙也加」そう締められた親への手紙をくしゃっと折り、そのまま泣き崩れてしまった先輩に、御両親と新郎が駆け寄る。会場は暖かい拍手で包まれる。

二次会で豹変しなきゃいいけど…なんて、意地の悪い台詞が浮かんできたけど、同時に自分の頬にも涙が伝わるのを自覚する。その矛盾たる感情は3年の間に築いた僕と先輩の関係を的確に表しているようでなんだか心地いい。
さてここが一番の仕事時だと震える自分の手を鼓舞する。
おめでとうございます、先輩。

■ パステルブルー、無地、リボン付き。



右手に携帯。左手に携帯。恒例の浮気チェック。
女からの受信メール無し。女への送信メール無し。新しく増えたメモリーに女の名前無し。念のために男の名前であたしの友だちが登録されてないか検索も掛ける。
何を嫉妬深いことをやっているのかと自分でも少しだけメランコリックにはなるけど、今月に入って立て続けに4人もの友人が浮気が理由で別れているのだ。これはそういう流行性感冒のようなものがあたしの周りで流行っているに違いない。しかもそのうち1人は浮気相手が保健室のセンセというなんとも悲惨な目に逢っていて、傑作なその言い訳が「下半身の治療だったんだよ」と泣きながらだったからというからコメントのしようがない。あは。
「な、浮気なんてしてないってば」
「うー、あわひぃ!」
両手がふさがっているので、ポカリスエットを口にくわえたまま喋ったら間抜けな声がでた。それにしても女子高生が屋上でポカリをくわえているというのは実に絵になるんじゃないかと客観的に思う。とても若い頃の相武紗季とかに似合いそうだ。そしてあたしは相武紗季には全然似ていない。
「女の子が口にモノ入れたまま喋るな」
彼がそう言ってポカリを奪うと、躊躇することなくそのまま飲み干した。まだ半分近くも残っていたのに、よくもまあそんなに一気に飲めるもんだと、あたしは呆れた。
「まだ半分残ってたんですけど」
「あー、うまかった。サンキュな」
「それに間接キスだと思うんですけど」
「言うな! 言わなければなんともないけど言われると照れるだろ」
「わたしさー、実はとてもとても重い病気に掛かっててさ。間接キスでも感染っちゃうんだって」
「ふぅん、白血病?」
「ぶー、はずれー、白血病の人に失礼です」
「じゃあなに、恋の病とか恥ずかしいこと言っちゃうわけ? おいおい、マジで?」
「うっわ。頭の中ショッキングピンク色なんじゃない」
「残念、肌色です」
「肌色のほうがもっとやらしいー。どうせ授業中も肌色なこと考えてるんでしょー」
浮気チェックの済んだ携帯を彼に返す。
タイミングがいいのか悪いのか、突風が吹いた。スカートが少しめくれて中身が彼に見えるか見えないかギリギリのライン。興味がなさそうにしてるくせに、一瞬ちらっとこっちを露骨に見た彼はなんだかかわいい。からかってもいいけど、今日は許してやるかな。
「でも、病気なのはほんとだよ」
「どんな病気?」
「秘密」
「はぁ」
「シークレット」
「はいはい、わかりました」
「いっくんはさー」
「ん」
「わたしが今から死んでやるっ、って言ったらなんてこたえる?」
「なんて言って欲しい?」
「質問に質問を返さない」
「はいはい」
「なんて言うー?」
「死ぬな!」
「うそだー」
「じゃあ、お前が死ぬなら俺も一緒に死んでやる、とか」
「それも言いそうにないよね」
「俺どんなキャラなわけよ」
「ふぅん、とか、死んじゃうんだ、そっか、とか」
「ひどくね」
「ひどいけど、言うでしょ、多分」
「あー、そんなこと、ねーと思うけどなー」
「でしょー、絶対言うよ」
「そんなことなー、言わないと、うん、思うけどなー」
「わたしが死ぬんだったらね」
「ん」
「うちの死に顔っていっくんには見られたくないなー」
「どーしてよ」
「だって、死に顔って汚いかもしれないじゃん。トマトみたいに潰れてたり、ものすごくガリガリになってたりとか」
「そりゃあ、死に方によるよな。きれいだろ、死んでるんだぜそれで、とかそういう死に方もあるしな」
「可能性の問題だよねー。首吊りとかだったら汚いの垂らしてむごたらしい死体だよ。百年の恋も覚めるに決まってるよね」
「首吊りは勘弁だなー」
「だからわたしは見られたくないのです」
「それはわかった。で、どうするんだ」
「だから、わたしが死ぬ前にはいっくんに死んでて欲しいな、なんて」
「あー。ムリ、だって俺、あと100年生きるし」
「じゃあわたしも100年生きなきゃってこと?」
「そうなりますか」
「そうなりますね」
また、突風。今度はバッチリ見られたと思った。


そんなあたしのちっぽけな死にたい理由(家庭環境がちょっと悪かったから死にたいだなんて、今思うとお笑い種でしかない)がなくなってしまって、人並みにぼんやりと受験を意識しだした頃に、彼は死んだ。
彼が死んだ理由はもう笑っちゃうくらい酷い理由で、そんなクソ食らえな死に方をした彼の顔は見れたものじゃなくて、棺の中の顔の部分には最後まで布が掛かってたらしい。友人が教えてくれた話だ。
あたしは御通夜にも葬式にも出なかったから、彼の最後を何も知らなくて、なんだかずっと身体の内側をすきま風が通り抜けようとしてとどまっているような、よくわからない感覚にずっと苛まれて、かといって眠れないほどではなかったけれど、人並みには参っていた。
彼とは受験生になった頃からあんまり会ってなかったなぁ、とか、あれは自然消滅だからあたしはもう彼の彼女じゃなかったのかもなぁ、とか。
そんな誰へのものかもわからない責任転嫁のようなものを抱えて、右手には彼の携帯の代わりにマイセンの6mgをいつのまにか持つようになっていたことに気がついた。
志望校は落ちた。
浪人して、結局短大へ行って、デキ婚。
人並みに楽しく暮らしていて、彼のせいでもないし、彼のおかげでもない。

■ 冬のその他



「他の子はとっくに終わってるのに君だけは頑張ってるね。はい。差し入れ」
「遊んでたのは自分ですから。修了できないと就職もパアですから。なんとか明日までに終わらせますよ。あれ?ユンケルじゃないですか。高かったでしょうに」
「見切り品を安くで仕入れたの」
「期限間近だと安くなりますよね。きっと教授の目だって締め切りギリギリなら…」
「そう言って泣いた子が去年いたわね」
「あの人と一緒にしないでください。自分の場合データはありますので」
「ちなみに今何ページ?」
「30ページです」
「明日までに?」
「70ページです」
「1ページに割ける時間は30分といったところだね。残り40ページのうちデータと文の比率は?」
「データは10ページといったところですね」
「詰んだでしょ。それは。ふつーに考えて」
「そうかもしれませんが、やるだけやりますよ。ユンケルありがとうございます」
「頑張るのもいいんだけど、ちょっと一服しない?」
「いいですよ。貴重な時間を使って吸う煙はさぞかし美味いでしょうね。じゃ行きますか」

「あー寒いね外は」
「愛煙家は肩身狭いすね」
「手伝ってあげようか?」
「え?修論ですか?」
「うん」
「見返り要求するんですよね?」
「もちろん」
「こえーなー。なんですか?」
「付き合ってよ」
「どこに?」
「冗談じゃなくて」
「あれ?自分、前に先輩にふられませんでしたっけ?」
「そんなこともあったかもね」
「残念ながら自分、来年から東京で就職なんですよ」
「私が口利きした会社にね」
「その節はどうも」
「私としては君が留年してあと一年一緒に研究するのも悪くないと思ってるけどね」
「それは何と言うか、似て非なる選択肢ですね」
「で、どうするの?」
「ごめんなさいと言いたいとこですけど、現実、あとがないんですよねー。1人じゃ終わりそうにない。ましてドクターが協力してくれるとなるとね。こんなありがたい話はないですよ」
「じゃあ仕方ない。手伝ってやるかー」
「よろしくお願いします」
「よし、やるよー」
「やりますかね」
「あっ」
「なんですか?」
「見切り品というか見切れてんだよね、そのユンケル」
「期限切れなんて嫌な暗示ですね。間に合わなかったらどうするんですか」
「もっと違うとこで怒るよー。ふつー」
「お腹壊したらどうするんですか、とか?」




そう言った彼は見事に修論を書き上げた。
私は自分用に買ったユンケルでお腹を壊してしまい、ほとんど手伝ってあげられなかったのにだ。
そしてそれが科でトップ評価であったことを後で教授から聞いた。

季節は一巡し、私は博士論文にとりかかっている。
時折去年のことを思い出す。
ここでこうして煙草をふかしながら、私はずるい手を使った。
嫌な女だった。
彼の好意を知りながら、しかも一旦は退けたはずなのに。

今でも時々来るメールは、デートの誘いだけのシンプルな文章。
学生時代からずっと同じ、句読点すらも省略した質素なメール。
最近では、つい先週、
「今度スキーに行きませんか連絡ください」
というのが来ていた。
あんなふざけた約束を律儀に守ろうとしている彼は、たぶん何も変わっていないだろう。
携帯電話を握る手がかじかむ。
寒さに耐え切れず電話ごとポケットに突っ込む。
私はこれまでの23通のメールに、まだ一度も返信していない。


「スキーかー。いいねー。ってか、私D論真っ最中だってのに。わかるでしょ。ふつー」
独り言は煙草の煙に混ざって冬の空に消える。
ふと足元に目をやるとスタンド灰皿の傍に茶褐色ビンがみえた。
手にとってみるとほんのりと暖かい。
ラベルを確認し、もしかしたらと思って周りを見渡してみるけど、静まり返った冬休みのキャンパスがあるだけ。
「おいおい、安いドラマじゃないんだから」
本当に。
来るなら来るって言えばいいのに。
メールで駄目なら電話すればいいのに。
肝心なところがわかってないんだ。

近くにいるなら届けばいい。
もういないならそれはそれでいい。
「ごめん」
言ってしまった。
言えば泣いてしまう自信があったのに。
鼻の奥がツンとなる。
「でもさー、ここは正露丸じゃなくてユンケルじゃないかなー。ふつー」
震える声が自分の耳に届いた頃、自分が泣いていることを自覚した。

■ 以心伝心、雨あられ



「願い事、かなったみたい」
「突然雨が降ってみんなが困るのが?」
下校と同時に降りだした雨に、教室は嘆きの声で満ち溢れている。

「別に皆を困らせるのが願いではないわ。」
「じゃ、突然の雨が願いなのね。」
「一部ね。それだけではだめよ。」
「全部だとどうなるの?」
「昨日、夢におばあちゃんが出てきたのよ。」
「・・・何の話?」
「願い事の話でしょ。」
「続けて。」
「昨日、枕もとにおばあちゃんが来て、あんたの願いをかなえてあげるから言ってごらんって。そこでかくかくしかじか。」
「かくかくとしかじかで話が伝わるのはマンガの中だけだ。」
「そんなに聞きたいの。欲張りね」
「お前がケチすぎる。」
「だから私は言ったの。突然雨が降ってきた後で私は傘がなくてどうしようもなくて、私の想い人が一緒に傘に入ってく?って誘ってくれて、一緒に下校なんかしちゃって、別れ際に告白されたいって。」
「詳細ですね」
「詳細です。」
「乙女ですね。」
「レディです。」

そこまで言ったところで、雨が勢いを増した。
雨粒がガラス窓に向かって賑やかにぶつかっている。

「君のおばあちゃん、やりすぎじゃない?」
「そういうおばあちゃんが私は好きなのよ。でも、これは想定外ね。」
「もちろん傘は?」
「持ってきてないわ。あなたは?」
「言うまでもない。」
「これは想定外ね。」
「ふぅん、そういうことなの?」
「そういうことよ。今、すごく大事な話をした気がする。」
「俺もすごく大事な話をされた気がする。」
「いいわ。また次の機会にする。」
「そのときは早めに言ってくれ」
「それじゃ面白くないじゃない」

そういって彼女は自分の席へと戻り、鞄をあけ、折り畳み傘をさらりと取り出し帰っていった。

■ 旧姓の里帰り



手の焼ける親友はどう見たってお姉さんタイプだ。卒業以来1年半ぶりに会うのに、その見てくれは変わらない。
色白で表情なくて、冷淡にみえる美人。私も男うけする顔であることは自覚しているけれど、彼女はまた違うタイプの美人。要するに私が大笑いする美人で、彼女が微笑まない美人。

 美人美人と宣っているが、決して言いすぎではない。学園祭で賜ったミスキャンのトロフィをどこにしまったか忘れて、翌年返還できなかったという経歴をもつ私から見ても、同じステージに彼女が出てたら危なかったと思う。ただ、そういうイベントに出るタイプではないし、出たとしても愛想がないからたぶん私が勝つだろうけれど。
 己が眼に映るものとその実が異なるのは世の常。彼女もまた然り、よく喋る方であるし、何より甘えん坊の妹属性である。ただし私の前だけで。彼女の所属する研究室では年長ということもあり、皆の頼れるお姉さん的存在らしいのだけど、弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者をたたくのと同じ様に、その上をゆく姉御肌の前では、彼女のピチピチの肌は一層若く妹肌になるようだ。

 そんな彼女との一年半ぶりの再会は、同じく久方ぶりの大学界隈の居酒屋。かつては私も、このつけ髭のマスターの居酒屋によく出入りしたものだ。居酒屋なのにマスターとは、当然ながら自称にすぎない。その上彼は、マスターなら髭だろうという安易安直阿呆な思想から、一本ウン万もする付け髭を両手じゃ足りないほど所有する奇人である。実は曜日事に髭を変えてるらしいのだけど、私はムダ毛という類型でしか見たことがないので、その神妙珍妙な差異が、電子機器の操作と同じくらい理解できない。
だから、親友の
「マスターまたお髭新調したのね。奥さんに怒られなかった?」
なんて挨拶に、驚きと尊敬の念を抱かざるをえなく、遠巻きに傍観したい衝動との葛藤の末、
「マスター久しぶり。似合ってるね」
とだけ棒読んだ。すると偽髭マスターは、
「お久しぶりですね。貴女も似合ってますよ、その指輪」
と答えた。そう言えば結婚してから初の来店になるようだ。
「なんとお呼びすればよろしいですか」
と問われたので、運命の人の姓もたまたま同じであったというような話を、適当にでっちあげた。正直なところ、この地では旧姓の方がしっくりくる。ムダ毛マスターは、
「そうでしたか。それは運命ですね、佐々木さん」
と感嘆し、私たちにカウンター席をあてがった。

 こじんまりしたカウンターで親友との久々の語らい。ビールとマルボロが主食だと言わんばかりに、空のジョッキと灰を積もらせていく彼女は、以前にもまして不健康な食生活をおくっているようだった。
 2時間もすれば、酔っ払い2人と泥酔ムダ毛ができあがり、平日ということもあって客は私たちだけになった。さらに言えば、ムダ毛が自分のアイデンティティたるムダ毛をカウンターに放置したままトイレに籠城したために、店には私たち2人と人間じゃない方のムダ毛だけだった。

 親友は先ほどから泣きながらビールサーバーを叩いている。デジャブかとも思ったけど、ただ単に過去の記憶と一致しているだけだと気づく。実に懐かしい光景だ。
「ねえ沙也加」
と彼女が甘え声を出すので、何かと思えば、また男に言い寄られて、その慕情を無碍にしたのことだった。罪悪感など感じる必要はないのに、彼女はいつもその誰かのために泣く。そんな男忘れちまえと、フった側を慰めるのだから変な話だ。

 ただ、今回ばかりは少しばかり惜しい気がしてならない。齢24の女をして、既に内定を頂戴している大企業の顔に泥化粧を施してまで、博士になることを薦めたのは、その男だそうだ。同じ研究室で同じ師を仰ぎ、同じ機械でデータをとり、同じ葉の煙を愛する2つ下の男の子。まとめると、本当にやりたいことやらないで何が社会人だと、その子に怒られたのだと。我が親友に説教垂れる奴が私の他にいるとなれば、そいつの身辺あるいは心辺を隈無く探せばどこか1つくらい見所がありそうだ。

 ビールサーバーとの死闘に勝利した親友は、勝利の証したる杯を、その赤らんだ頬に当て、呟く。
「同じ研究室内で恋愛なんて近すぎるよね?断るよね?ふつー」
毎日旦那と顔合わせている私からすれば、彼女の胸中を察し、賛同し、それがいかに面倒くさいことなのか懇切丁寧に解説するのもやぶさかではない。しかし親友は私に甘えているだけなのだ。彼女の甘えとはすなはち叱られることなのだ。幸いにも、私には彼女を叱るだけの付き合いの長さと度量があり、毎度の如く説教するのだ。
「その子は、成功したときは勿論、フられたときにその近距離をしのがなきゃいけないっていうリスクを背負って勇気出したのに。あんたはさらっとかわしたのよ。わかる?でもね、可哀想なのはあんた。それは惜しい男を逃がしたね。後悔するよ」

やっぱそうだよね、溜息のように懺悔の台詞を吐いた後、親友は本格的に涙の量産体制に入った。泣き、叫び、飲み、飲み、また飲む。途中我慢ならなくなったのか私の胸でも泣いた。ひとしきりの懺悔を私の胸の谷間に挟み込んだ後
「うえーん。吐きたいよ」
なんて言い出したので、真夏の果実の如き弾力で突っぱねてた。

 親友は走ってトイレに向かい、ドアノブを何度かガチャガチャ言わせたあと、
「おい、偽髭危機一発。早く出てこい。出ないとカウンターの偽髭が私色に染まるよ」
と世にも恐ろしい脅しをかけた。“ムダ毛ダメ、絶対。”派の私ですら、同情を禁じ得ない。

私は彼女に説教する時間が好きであるし、彼女をまた愛してやまない。たかだか1年半だけど、こうして会えば、その遠き日に一瞬で帰れてしまう。そんな里帰りを許してくれる本当の友人はそう多くない。
大事にせねばなるまい。大惨事を傍観しながらそんなことを思った。

■ 酸いも甘いも苦いのも



生きている間にはいいことも悪いことも同じように起こる。

告白を受け入れられて幸せな日々を送っていることもあれば、クリスマスの夜のために人気レストランの予約を取り、その夜のために寝る間も惜しんで仕事を調整したにもかかわらず、前菜が出てきたところで彼女に突然泣かれたあげく別れを告げられ、三ツ星フルコースと食後のサプライズケーキが台無しになることもあるのだ。
その類まれなる貴重な経験をしてしまった後輩の山下君は、とうとう仕事納めの日まで職場に顔を出すことはなかった。
悲惨で無残で散々な話だ。

「それはその後輩君も当然悪いわよ。」
目の前でチーズケーキをパクつていた彼女はそう言い切った。
いつものことながら、佐野さんの言う「当然」が、男の僕にはさっぱりわからない。
そして、そのわからない素振りのせいで、お説教を食らうのだ。教育の名の下に。
「いい、よく覚えときなさい。別れ話を「突然」されることなんて絶対ないのよ。もし突然と感じるとすれば、相手に関心がまったくないか、客に出す料理に髪の毛が入っていても気づかないような超ド級鈍感バカのどっちかよ。」
でた。また髪の毛の話。これでもう三回目だ。
一軒目の喫茶店で頼んだカルボナーラに髪の毛が入っていたのがよっぽど頭にきたらしく、ことあるごとに髪の毛の話を絡めてくる。一回目は自動販売機で飲みたいものが売り切れだったときに、もう一回はメニューを決める際にいちごタルトがなかったときに。
関係のないものを無理やりつなげられる彼女の感性には、ほとほと、感心させられる。
ちなみに、そのお店の店員には「当然」一年分の嫌味をあびせ、お店とは早々におさらばした。
「大体、別れの前には何らかのサインが出てるものなのよ。わかる?」
「いいえ。さっぱり。」
僕にはあなたが初めての彼女で、別れを考えたことはないものですから。
「だめね。全然だめ。たとえば、週末に家族と過ごす名目が多くなったり、トイレに行くときに携帯電話を持っていくようになったりするの。つまり、浮気の前触れ、ジ・エンドの兆し。相手の行動をちゃんと見てれば、心なんて大体わかるものなのよ。女の子なら当然知ってることよ。」
残念ながら僕は男なんです、先生。
「とにかく、好きな人の行動くらいは、チェックして然るべきなのよっ。いいわね。」
「はいはい、わかりました。わかりましたよ。で、君にはオレンジジュースを取ってくればいいの?」
「うむ、よろしい。私の彼はよくみてくれている。私は愛されている。」
満足げな彼女の顔からするに、今回の講義に対する僕の答案はなかなかの高得点をたたき出したようだ。
「僕も愛してほしいなぁ、なんて」
「もちろん好きよ。ミキチャンっていう娘のメモリー、消去しといたから。」

生きている間にはいい事と悪いことが同時に起こることもあるのだ。
あはは、涙が出そう。

■ 幸せのハンカチ



「どっか食べ行かない?」
高山さんからの誘い。わりと気を遣わないで、わりと何でも話せる仲なので僕等はわりと一緒にいることが多い。友人として。
高山さんを一言で表すなら元気な人といったところ。常に何かしらしている。always doでつまるところ暇が嫌いなのだ。本人曰く、一旦止まると再始動するときに負荷がかかるらしい。
「つまりは慣性の法則なんだよ」
なんて言ってたのはボランティアでカンボジアに発つ前だった。
僕は高山さんが慣性のなんたるかを全く理解していないことを知っている。面白そうだと言う理由でカンボジアについていった僕は、その飛行機の中で高山さんのトンデモ論理の講義を受けたわけで。
「地球ってもの凄い速さで自転してるんだよね?じゃあ気球に乗って垂直に上昇したら、地球が回ってあっと言う間にカンボジアに着くんじゃない?私天才?あっ、でも駄目か。緯度が違うもんね。私天才じゃなかったかも」
正気なのかと疑われるかもしれないけど、高山さんがまともかどうかなんてたいして重要ではないわけで。
とにかく高山さんは退屈を嫌悪している人であるのは間違いないわけだし、面白事件や面倒事に目がない僕にとっては貴重な人だ。彼女の人と成りにそれ以上言及するのは紳士星野としても高山さんの友人としてもナンセンスってことで紹介はこの辺にしておこう。

「いいよー。ボーナス入ったし。どこ行く」
「星野はバイトのくせにボーナスもらってるの?」
「臨時ボーナスだよ。まとまった利益出したからね」
「100均って利益でるの?」
「ダイソーなめちゃぁいけませんよ。それうちの商品でしょ?」
高山さんのバックに結ばれたハンカチは今うち店のヒット商品で、今日まさに追加発注したところだ。
残念ながら100均では、ヒットしたからと言ってそれ自体の利益は雀の涙と燕の涙の差くらいしか出ないわけで、汗一つかかない経営者が大粒の涙を流して喜ぶのはヒット商品が呼び込む客の数。
ハンカチを買いに来た客でハンカチだけを買って帰る客はほとんどおらず、単価、原価率共に低い100均の経営では、いかに客を呼び込むか、そしていかに無駄なものを買わせるか手腕が問われる。
泣いて喜ぶ経営者の傍らで、下級労働者=バイトが流す涙はそのハンカチで拭えるものでは決してないことを彼らは知らないわけで。

「さすがバイトね。その通り。今学内で流行ってるみたいで。知ってる?」
「何を?」
「腕とか足とか鞄につけておくと単位落とさないらしいよ」
「ハンカチを?」
「しかも黄色のね」
「なんでまた?」
「そう。そこなのよ。これが謎なんだけど面白そうな話だっから教えてあげようと思って」
とこれまでの流れをみてわかるように、基本的に僕等はギブ&テイクな関係にあるわけで、高山さんが持ち込むぶっとんだ話や厄介事は質、量共に申し分なく、そののギブっぷりにはいつも惚れ惚れしてしまう。
「何?何?どんな話?」
「それがね、ちょっと謎めいててね。いろんな人から集めた話と噂を統合すると、見えない教授の目が黄色らしいんだ。ね?謎でしょう」
「う〜ん。何のことだかさっぱりだね。」
まったく、これだから高山さんは。本当に大好きだ。
「断片的な情報をかき集めた結果だからね。まだこれが正しいとはかぎらないし。星野は何か知らない?」
本当にスゴい話になってるなぁ、いろんな話や噂のN極通しを結びつけちゃったみたいに。
優れた情報源を持ちながら、手がかりをまとめて、真相を歪めて、自らが拡声器となり歪んだ話が広がる。
結果としてうちのハンカチが売れ、もらったボーナスで僕は高山さんにご飯を奢ろうとしている。実は超高度な循環型システムではないだろうか。
今度高山さんにジクゾーパズルをプレゼントしてみよう。サイコロあたりが売れて、売り上げ増加に確変が起こって、バイトが忙しくなって、店長が昇進して、その結果使えない新店長が来て、バイトが苦労する。
おっと、さじ加減を間違った。これでは客と新旧店長と会社にしか幸福をもたらさない。
僕が真にどうでもいいと思っている3者だけが美味しいなんて。

「知らないなー」
「だよね。でも調査してる時にちょっといいことあって。カッコイイ人見つけちゃった。写メ見たい?」

急に話変わるし、高山さんの好みなんてどうでもいいのだけど、情報は時に武器になるし、利用できることもあるかもしれないと、100%不純な動機が浮かんで頷いた。
「どう?かわいい顔してるでしょ?光の科学って教養のコマで見つけたの。中原君って言うらしい」
「盗撮?」
「人聞き悪いわね。隠れて撮ったのよ」
国語辞典を開いたら一言一句違わずに今の台詞で説明があるかもしれない。
「彼の容姿についてはコメント避けるけど、もしかして光の科学ってコマを例の教授が持ってるの?」
「その辺はよくわからないんだけど、そのコマが関係してることは確からしくて。でもそのコマとってる知り合いいなくてさ」
「知り合いいるよ?紹介しようか?」
「ホント?それは助かるわ。なんとしても紹介して」
「ちょっと待ってて。電話してみる」
と何度も言うようだけど、僕等はギブ&テイクな関係にあるわけで、僕が持ってる知識やコネクションは、高山さんの暇つぶしに何役も買っていて、そのテイクっぷりからすると僕等はやはりわりと馬が合うのだ。
「大丈夫だって。今近くにいるからすぐ来るって」
「その子も一緒にご飯どうかしら」
「いいんじゃないかな。あっ、来たよ。早いな」

夕暮れの中信号を渡ってくると、だんだんと顔がはっきりと見えるようになる。彼が、僕等がいるネオンの下に合流して初めて、高山さんは彼のことに気づいたようで、
「な、中原君!?」
なんてすっとんきょうな声をあげていた。
『あれ?どこかでお会いしたことありましたっけ?』
中原の驚いた様な声に慌てふためく高山さんもいとをかし。照れた様子もちょっと可愛いかも。今日はきっと面白いことになる。

■ 冬の灰色



私が友だちと恋なんとかってケータイ小説に夢中になってやっばいよ泣けるよとかわんわん泣いてパケ放題にもはいらずにパケ死して親と大喧嘩したんだけど父親は無関心っぷりを発揮してて母親がキャアキャアヒス起こしてほんとうざいから本気で家出してやろうか人生の岐路に直立不動で立っている有意義な時間を過ごしていた間に、芳邦は白球を追って甲子園を目指していたらしい。らしいというのは私が野球というすごろくみたいな球技に本当に興味がなくて、白いユニフォームとかよくわからない帽子とか凶器以外の使い道の浮かばないバットとかそもそも白いくせに硬いボールとかテレビでみる坊主頭とかぜんぶギャグとしか思えなかったからだ。なんだよ白球って。硬いだけでぜんぜんかわいくないしもう最低じゃんとかそんな乙女の複雑な心情を白球に込めて芳邦に投げつけたら痛いからやめろばかと本気で怒られた。怒られてビクッとなった私は小動物のようにしゅんとなる。芳邦はすぐに言い過ぎたごめん、とか言う。芳邦は猫とか犬とか、あとフェレットとか、あとカビパラとか、あとなんだっけハシビロさんとかそんな名前の変な鳥みたいなの? とにかくそういう小動物が好きだ。従順なのがいいと芳邦はどやって顔で言う。いや猫は全然従順じゃないと思うけど、むしろ気まぐれすぎるっていうかそこがウリなんだと思うけど、そんな感じでぜんぜん同意できないけれど、とりあえず同意してみせている。芳邦はなんかもういっつもそんな感じで、そういうつかみ所のなさっていうのをカッコいいと思ってる節があってそういうところは白球どころかバットで殴りつけてやりたいと思う。

芳邦と私は付き合っている。芳邦とは隣のクラスで、友だちに紹介されてまあいっかって感じで付き合った。何がいいってわけでもないけど別に別れる理由もないかなあって理由で付き合い続けて二年ぐらいになる。二年かあ、無駄に長いなあとしみじみする。この二年間芳邦は毒にも薬にもなってないよなあと思う。かといって他の男子なら毒か薬になるのかっていうと、露骨に毒にしかならなそうなギャル男とかそんなのを除くとみんな似たようなものだろ、って理緒とよく笑っている。理緒は卒業したバスケ部の立花先輩のことがいまだに好きなんだけど、理緒も含めてだいたいみんなが立花先輩はなんかキモい性癖があるとか包茎だとかどうとかそういう駄目な噂を知っている。ほんとかどうかは知らないっていうか興味もないんだけど、立花先輩が前に付き合ってた生徒会の彼女がむちゃくちゃでだいたいの噂はその彼女がばら撒いたんじゃないかっていう噂だ。そんなどうでもいい噂が何ヶ月も充満してるあたり、ここは本当にどうしようもない田舎だなあと思う。

学校の周りは田んぼ道だらけだから、私は芳邦とよく一緒に田んぼ道を帰る。私が徒歩で芳邦が自転車。ときどきふたりのり。恥ずかしながら私は自転車ってものが苦手で、それでも練習しようとしたことはあるんだけど、芳邦が自転車の後部を持ちながら絶対離さないから安心してとか言って練習させたくせにすぐ離しやがって思いっきりずっこけたのがトラウマになっている。子どもなら離してもまっすぐ走るのにお前はひでーなとか言われて、この男は絶対離さないなんて言ってもそれは口だけで将来浮気するんだろうなとなんとなく悟ってしまったけど、まあそれでもいいと思っている。芳邦の肩に手を掛けて制服のスカートをはためかせながら走っているときの私はなんにでもなれる気がしている。なんにでもっていうか、鳥とか? けど実際はなんにもなれないので、とりあえず芳邦を叩いて飛び降りる。本当は蹴りたい背中だけど前にやったときバランスを崩してふたりともずっこけたからもうやらない。えいっと着地して深呼吸する。ああ、ここは本当にどうしようもない田舎だなあと思う。いち、に、さん、し、四方は全方位的にぜんぶ山だ。山以外なんにもみえない。なあんにもない。もういっかい深呼吸して、首筋を汗が流れてるのに気づく。ああ暑い。夏は暑いんだ。そしてなんにもない。こういうときの私を芳邦は怪訝な顔で見ている。なんにもない。あまりのなんにもなさにこう、気持ちがぐにゅうううってなる。わかるかなこのぐにゅう加減。空は青いなおおきいな、雲はなんかでかいなおおきいな、暑いなおおきいな。でもまだ六月だからもっと暑くなる。やばいくらい暑くなるよ、今年も。そしてなんかそれと並行してすっごい閉塞感。なんだろね、欲しい服とかいっぱいあるし、お風呂あがりにお菓子食べて寝転びながら雑誌見てると読モのえみちゃんとか超かわいいし、目が大きいし顔ちっちゃいし同じ人間って思えないくらいかわいいし私もあこがれてるんだけどとりあえずは服からでいいかなって思うんだけど、イオンにいくのだって何時間もかかるし、横浜なんて夢のまた夢だし、東京はもっと遠い。って言ったら横浜も東京も同じくらいだよって馬鹿にされたことがあるけど、芳邦に。まあとにかくそういう閉塞感があるんだよね。夏の暑さと閉塞感でぐにゅううとなる。これがぐにゅう感。思いっきり地面を踏んで仁王立ちになって、しんじゃえーって叫んだ。お腹から声が出る。まるで合唱部だ。んで、しねーってもっかい叫んだ。誰がとかそんなんじゃない。芳邦がおいおいとか言って近づいてくる。無意識のうちに足が伸びた。うわ、私の脚、速い。ヒュっていう風を切るすっごい心地いい音がして、直撃した芳邦が吹っ飛んで、自転車を巻き込んで田んぼに落ちた。芳邦べっちょべちょ。クリーンヒット。あははははって大声で笑った。んで写メを撮った。そのまま理緒とかみんなに送信。そのときの画像は今見てもときどき笑いがこみ上げる。

芳邦は、っていうか私たちの学校は一回戦で負けた。三年生だからこれでようやく引退だ。無理やり応援に連れ出された私と友だちは大笑いしていた。応援団とか私たちまでかりだしておいてこんな結末とかみじめだよねーと思うとますます笑いがこみあげてきて涙が滲むくらい笑った。おなかが筋肉痛になるかと思った。だって本当にみじめだったんだから仕方がないじゃん。ボールは何度もこぼすわ連続三振はするわ笑いどころ満載の一時間だった。笑いは人の心を平和にするよ。ちなみにコールド負けというらしい。コールドっていう言葉に私と理緒はまた笑った。こんな暑いのにコールドて、コールドて。いや冷たいじゃなくて熱いだろ。笑いが止まらない。野球って本当に変だよね理解できない、あはは。っていうと芳邦はそれはもう本気で不機嫌になった。それでも笑うのをやめない私。ますます不機嫌になる芳邦。すっげー構図。片方はますます笑って片方はますます苛苛してる。箸が転げてもおかしいモードに入った私はその構図にまたひととおり笑った。結局芳邦に頬をつねられて私の笑いはとりあえず止まった。その夜キャンプファイアーのようにユニフォームを燃やす芳邦の横でやっぱり私は笑っていた。笑っていたけど別に楽しかったわけじゃない。芳邦は神妙な顔をしていた。それがまた私の笑いに拍車を掛けたけど、やっぱり楽しかったわけじゃないと思う。よくわからないけど、ただただ単純に笑っていたのだ。私だけじゃなくて理緒とかみんなももしかしたらそうだったのかも。とは私が勝手に思っただけだけど、でも案外あってる気もする。

夏休みが来て、芳邦に手を取られ走った。夏祭りの日だった。蝉はうるさいし蜃気楼はゆがんでるし、私はなんで自分が走ってるのか意味がわかんなくてずっと不機嫌だった。うっせーよ花火がすげー綺麗に見えるんだよいいからこいよって芳邦は言う。着いたところはちょっとした高台で花火が始まるまでにはだいぶ時間があった。だいぶ時間があるわ暑いわで私はだいぶ苛苛していたんだけど、芳邦が遠くの夜店まで焼きソバとお好み焼きと焼きイカとりんご飴と溶けたカキ氷を買いに行ってくれたから、食べ物に釣られたわけではないけれど、私も機嫌直してあげよっかなーって気分になった。お好み焼きは生焼けで食べれたものじゃなかったけど、なんか印象に残ってる。暗くなって花火がはじまったら、芳邦が抱きついてきたので思わず振り払ったら転がり落ちた。芳邦が落ちた先は水溜りになっていたみたいで泥まみれになっていた。懲りずにまた抱きついてこようとしたので蹴り落とした。そんなことばっかりしてたせいで花火を見た記憶がない。花火が終わるころに多分芳邦とキスをして、それがまあ私のはじめてのキスだったんだけど、泥の味がした。泥臭いって私は文句を言って、また蹴落とした。

汗を拭いながら、弟が入院している病院に向かう。弟は私が来ると犬のように尻尾を振って喜ぶ。あいにく貧乏な女子高生でお見舞品とか何もないから、いつも創作したお話を聞かせてあげることにしている。だいたい主人公は病に伏せっている悲劇の男の子で、天使が降りてくるとか魔女が現れるとかそんな奇跡が起きて病気が治って旅にでるお話だ。男の子は旅を終えて幸せに暮らしましためでたしめでたしやーん超ハッピーってのが八割ぐらい、ときどきバッドエンド。今日は芳邦を蹴落としたばなしを織り交ぜた。弟は声をあげて笑っていた。この子がこんなに笑うのを見るのは久しぶりだから、芳邦の蹴落とさればなしをよっぽど気に入ったのだろう。屈託のない笑顔の弟を見ると、ああこの子は死ぬんだなと思う。うまく言葉にはできないんだけど、そういう笑い方をする子なのだ。同情とか哀れんでも仕方がないから私は同情もしないし哀れむこともしない。ただ弟のお見舞いに来て、お話を聞かせてあげる。私がしているのはそれだけだ。だけど、できることならなんでもしてあげたいと思うのがお姉ちゃんってものじゃないかな。

恵美を呼び出した。恵美はクラスでいじめられている。首謀者は私じゃないけど、もともと最初に気に食わないって言ったのは私だったような気もする。私は一ヶ月ぐらいで飽きたけど、理緒とかはずっといじめ続けてる。生理的にムカつくとか言ってるけど、どっちも暇だなあと思う。私には恵美をいじめている暇なんてそんなもったいない時間はない。そんな多忙人な私は呼び出した恵美に単刀直入に、弟とセックスするように言った。私の知ってる限りそういういじめは多分なかったはずだから、恵美はいままでに見たことがないくらい嫌がったけど、穏便に穏便にときには脅しを使いながらやさしく説得したら恵美はわかってくれた。持つべきものは言葉だよね。恵美は泣きながら弟とセックスをした。弟の身体は動かないから騎乗位で、多分恵美が腰を振ったんじゃないかな。私はその様子を病室の外の廊下でぼーっと聞いていた。私はなにをやってるんだろうね。弟も、恵美も何をやってるんだ。とかなんとか、あと今日の夕飯なんだろとか、世界情勢とか、宇宙のはじまりのこととか、そんなこと考えながらぼーっと恵美の泣き声とかを聞いてた。煙草を吸って吐いて白い煙を眺めていたら看護婦に怒られた。そういやここ病室。私ほんとに何やってんだろね。私は力なく笑った。恵美がそれに気づいたようだったけど、何も言われてない。

そんなんだから弟の葬式にまさか恵美が来るとは思っていなかった。ごめんと謝るのもなんか違うと思うし、私が何も言えずにいると恵美が近づいてきた。ご愁傷様ですとか定型句と、あとはアドレスを交換したことしか覚えていない。その後も恵美とは定期的にメールを交換してる。恵美は地元の短大に行ってヒモのようなクズのような男と同棲してるとかなんとか。割とどうでもいい話。恵美が帰ったあと、なんだかなあってやりきれない気分の私が煙草を吸っていると今度は芳邦に怒られた。煙草を吸う女は嫌だとかなんとか、妊娠中の喫煙はやばいとかなんとか。お前自分吸ってるくせにうるせーよって蹴った。あと妊娠なんかしてねーよってもう一度蹴った。そんな感じでまた喧嘩をしたから、いつものようにしばらく連絡を取らないでいたら、次の週はもうセンター試験だった。曇りの日で、その冬で一番寒い日だった。

«  | HOME |  »

■ アバウト

  • 何人かでまったりと。
  • どれがだれでなにがどうなのか不明。
  • 水兵リーベ僕の街 の続きになっていましたよ。

■ ログ

■ フォト