■ 鳥になれなかった祈りの残滓

濁った緑色の空の下で、飛行場から轟音が響いてる。まるで鳥のように飛びたいと願う小さな女の子のように、わたしはふと金網に手を伸ばして、尺取り虫が潰れる嫌な感触に思わずその手をひっこめた。
学校から帰ると、厚化粧と年齢に不釣り合いな化粧をした母が仕事に出ていくところだった。母はずっと前から小汚いスナックで働いている。週の半分ぐらいは帰ってこないから、また新しい男ができたのかもしれない。母のことが嫌いだ。そんな母に頼らないと生きていけない自分のことも嫌いだ。ここからいなくなってしまいたい。鳥になれないのは知っているから、飛行機に乗って。
姉もそう思っていたかは知らない。
わたしが中学にあがった年に、姉は高校三年生になり、携帯サイトで出会った東京の男のところに飛び出して、二ヶ月も経たないうちに捨てられ男の家を追い出された。わたしにはよくメールで近況報告が来ていたが、ここ一年ぐらい音沙汰がない。あれほどわたしを虐めていた姉のことだから、しぶとく生きてはいるのだろう。どんな生活をしてるのかはなんとなく想像がついてしまう。姉のことを想像してしまうと、わたしは飛び立っても何者にもなれず姉と同じような惨めな生き様を晒すのだろうなと思ってしまう。ここではないどこかへ行きたいのに、行ってもきっと何も変わらないのだ。少なくともいい方向には。
親友の加奈子が、私駆け落ちするかもしれないと唐突に言った。百円のバニラシェイクを飲んでいたわたしはむせて激しく咳きこんだ。加奈子は三年の先輩と付き合っている。加奈子の家もわたしの家と似た環境で、小学生のころは家庭環境を材料にいじめられそうになったこともある。そういう理由で先輩の両親が加奈子のことをよく思っていないと相談されたことも何度かあった。再来月の先輩の卒業に合わせて東北のほうへ逃げるつもりなのだという。先輩は工場の内定を犠牲にして、加奈子は高卒の肩書を犠牲にして、飛び立っていくのだという。姉のことは頭をよぎった。だけどわたしは今度こそ上手くいってほしいと思ったのだ。飛び立って、幸せになる。そういう成功談が欲しいのだ。それを胸に、わたしもいつか飛び立つのだ。加奈子の両手を握り、応援すると言った。加奈子はそんなわたしの両手を握り返しありがとうと頬笑んだ。
先輩と加奈子はカモフラージュのために別れたことにしているのだという。先輩の友だちが裏で暗躍しているらしく、わたしにできるのはときどき情緒不安定になって泣きだした加奈子を慰めたり勇気づけるぐらいだった。
卒業式の日、先輩はオールナイトの卒業パーティに参加したフリをして飛び立ち、友だちの工作により翌々日まで誤魔化すことに成功し、そのあとちょっとした騒ぎになった。加奈子の家は母親が加奈子に無関心だったので、何の騒ぎもなかったと覚えている。わたしもまた、その一連の騒ぎに高揚していた。
加奈子からは結構な頻度でメールが来る。
先輩の友だちが親戚のつてで用意していた仕事先が駄目になった。次の仕事が見つからない。先輩はコンビニでバイトをすることになった。自分の仕事が見つからない。隣人は夜中にうるさい。先輩とも喧嘩をすることが増えた。顔を合わせれば喧嘩しかしない。
そのたびにわたしは加奈子を慰めていた。でももう限界なんだろうなと思った。
半年も保たなかった。でもリアルタイムで加奈子を慰めていたわたしは、長く保ったほうだと思った。加奈子が戻ってきた日、わたしはわんわん泣いた。加奈子が上手く行かなかった悔しさから泣いたのだと思った。でも、あとから思い返すとそれだけじゃなかったと思う。たぶん、もっとよくない感情もあったのだと思う。
先輩と加奈子は別れた。先輩はもともとの内定先に土下座をしていたようだが、もちろん許されるはずもなくその後の話は知らない。加奈子は通信制の高校に入り直したいと言っていたが、母親が金銭的に許してくれないらしい。わたしはその間に卒業し、家からほど近い印刷工場で事務作業をしている。事務の従業員が3人しかいない小さな工場で、お局様はとてもウザいけど、他は現場もみんないい人だし、不満があるわけではない。
仕事から帰ると、厚化粧と年齢に不釣り合いな化粧をした母が仕事に出ていくところだった。相変わらず毒々しい色の下品な服だが、母の趣味とは少し違う気がするから、新しい男ができたのかもしれない。
濁った緑色の空の下で、飛行場から轟音が響いてる。まるで鳥のように飛びたいと願う小さな女の子のように、わたしはふと金網に手を伸ばして、毒虫に触れて痛っと悲鳴をあげた。それから一週間が経つが、まだ指の腫れは引いていない。
■ 父のおもいで

父の話をする。
私の父は自称投資家だった。ただのサラリーマンだと気づいたのはだいぶ大きくなってからで、実際は部下の人たちが持ってくる事業計画や企画の投資判断をしているに過ぎなかった。それでもかなり優秀だったらしく、父の会社の人がうちに来てお父さんのおかげだと手土産をくれることがしばしばあった。そんな父は、私に対しても投資家だった。
中学2年のとき、当時通っていた地元の公立の学校で進路相談のための三者面談が行われた。私は自分の家は金持ちだと思い込んでいたし、成績もそこそこだったので、そこそこのレベルでそこそこお高いお嬢様学校の名前を挙げた。理由を尋ねたのは隣にいた父だった。
「私でも行けそうだし皆も行くし」
そのようなことを言ったものだから、父は怒った。いつも父は冷たく淡々と理詰めで怒る。私と母は屁理屈の権化と密かに呼んでいたのだけど、父がお怒りモードに入ると、超一流の弁護士でもそうそう止められないくらい、とにかく理屈をこねる。いつの間にか三者面談が二者面談に最後は弁論大会に変わっていた。申し訳なさそうに校長先生が進路指導室をノックして
「そろそろ閉めますが」
と言ったのが20:30だったからそれまで3時間近く父は怒っていたことになる。結局その日は、私達親子で気の済むまで話し合って結論だけ後日学校に報告するということになって、学校を追い出された。私は、先生ごめんねと舌を出して父の車で帰った。
車内での父は無言だった。重い空気に耐えかねた私は、独り言のように、父の話の要点を指折り挙げた。
「中学までは義務教育、でも高校からは違う、でしょ。だからお父さんは高校に行くお金を出す義務はない、でしょ。お父さんがお金を出すからには、リスクとリターンをきちんと説明するでしょ」
おそるおそる父の顔を伺うと
「その通り。まずは高校に行く目的と目標を明確にしなさい」
と仏頂面が喋った。
「何かしたい仕事はあるのか?」
「投資家は嫌だなぁ。話が口説いから」
「全ての投資家がこうとは限らん」
自覚はあるんだーと思いながら、私は、建築士になりたいと答えた。今思えば特にこれといった理由はなかったのだけど、修学旅行で行った東京の高層ビルにえらく感動し、友達と別行動をとってまで撮った新宿や渋谷のビルの写真を眺めるのが好きだったし、もっとこうだったら綺麗なのにと幾何形状をスケッチに書いたりもしていた。
「立派だ。父として誇らしい。しかしそれは目的か目標かあくまで手段か?」
その3つがどう違うのか父はさきほど私と先生とに力説していた。
「今の時点での目的はあくまでも生きていく糧を手に入れることでしょ?だから建築士として生計を立てられるようになることが目的で、建築士になることは目標の1つかな。手段としては大学に行って勉強して資格を取る」
「100点ではないが及第点」
「そのために高校に行って勉強する!!どう?これで繋がった?」
「大筋は良い。そのために大学でどんなことをするのか、それがわかるとどのレベルの大学に行く必要があって、そのためにどれだけ勉強しなきゃいけないのか…云云はもう少し調べて補足しなさい」
「はーい」
宿題を貰ってしまったけど、父の機嫌がそれほど悪くないことに安堵していた。当時私は、小さな反抗期をいくつも抱えていた。父の言うことに表向きは従っていたけれど、その実、全部父に見通されているのではと恐怖していた。自分の部屋に鍵をかけて、父の言葉の表面をなぞってはその冷たさに震えていた。大概の女子中学生と同じように父親が嫌いだった。
「最も重要なのは投資家からお金を出させるには、投資家にとってのリターンとリスクが何なのかを説明することだ」
家の前の坂の途中の赤信号で、父はそう言った。
「え?今の話ってお父さんにとって利益なんかあるの?リスクばっかりだと思うけど」
「リスク、リターンはなにもお金だけの話じゃない。おまえがそれで幸せに生きていく力を手に入れるんだろ?それそのものが父さんへのリターンだ」
父の言った意味が初めはわからなかった。信号が変わり、車が発進し、坂を登って行く。ようやく私は真意に気が付いた。父の言葉が素直に嬉しかった。厳しかった父の愛に初めて触れた気がして、感動してしまった。つーと涙が頬を伝って指先に触れた。慌てて隠そうとしたけど、第2、3弾がそれを邪魔した。やばい。何やってんだろう。なんでこんなことで。
「利益の形をお金でしか考えないのは、優秀な投資家かもしれないが人間としては致命的な弱点だ」
気がついたら車は坂を登りきって、いつも通り後ろ向きに車庫に収まっていた。私は、ダッシュボードに突っ伏して泣いていた。
「落ち着いたら上がって来なさい」
父はそう言って私に自分のハンカチを握らせた。お父さん嫌い。私は、そう言ってハンカチを投げ返したのだけど、言葉もハンカチも父には届かず、運転者席の窓ガラスに当たって跳ね返って落ちた。
私はわんわんと泣いた。
父の言葉の内側に詰まった愛を、どう消化して良いのかわからず、涙は止まったのだけど赤く腫らした目をどう隠したら良いかわからず、私は車を出られないでいた。コンコンと窓をノックしたのは母だった。私は渋々ドアを開けた。
「お父さんが見てこいって?」
「そう。帰ってきやすいようもう寝てるってさ」
「バカ」
「バカはどっちよ。あんまり父さんを凹まさないでよ。あの人拗ねると大変なんだから」
やっぱり聞こえてたのか。悪いことしたなと胸が痛くなった。
「お母さんはどっちの味方よ」
「決まってるでしょ。あなたよ」
その日の夕飯は父の大好きなコロッケだった。母が、片付かないから早く食べてと急かしたのを覚えている。
大学に進学するときも、父へのプレゼンは難航した。どうして大学に行く必要があるのか、特に東京の大学に行き1人暮らしをする必要があったため、金額面でもしっかりと見積りをたて資料を作った。父は、間違いやロジックの乱れを指摘しながら、私がどういう大学生活を送りたいのか、そのプランを導いてくれた。そして月一の報告義務を課し、大学4年分の学費と生活費を一括で出資してくれた。課された報告義務は、実のところ父が私と話したいだけの口実で、内容を説明しても「順調だな。その調子でいけ」しかコメントせず、一人暮らしはどうだだの男はできたのかだの凡そ勉学とは無関係な話題が多かった。
バイトしてお金を貯めてドバイの建築物を観に行きたいと申し出たら、旅行の中身と見積り、バイトの時給とバイトをしなくて済む場合の時間の活用を説明させた。そして、少なくない援助をしてくれた。私は、投資家の期待に答えるべくできるだけのものを観て、学んで、記録し、夏休みに帰省したときに報告した。父は俺も行ってみたいなーなんて言って、食べ物の写真に夢中になり、建物などにはまるで興味がなさそうだった。
大学院に入るとき、実家のリフォームの話を母から電話で聞いた。5年後を目指して貯蓄を始めるそうだ。そのとき私に設計してくれとは言わなかった。その月の父への電話報告の折に、冗談を交えて私に任せてみないかと言ったら、「おまえの仕事ではなかろう」とあっさり断られた。さすがに私も大人になっていたので、父の言いたい事はわかっていた。私の目指すは高層建築だからだろう。
後日母に聞いたら、あいつに作ってもらったら俺は新しい家から一歩も出たくなくなるとボヤいていたそうだ。
大手ゼネコンに就職して最初の給料日に両親を食事に誘った。その前の年に父は仕事をリタイアしていた。おまえも就職してしまったし、良い投資先がないかと探していると言っていたけど、母からは毎日私の会社の株価やHPをチェックしているだけで、他の時間はのんびり囲碁や将棋をしていると聞いている。男親は女同士の連帯感を知らないようだ。
父とお酒を交わすのはそのときが初めてで、酔っ払った父は面倒くさかった。早く男作れだの、早く結婚しろだの、孫の顔が見たいだの。母と2人がかりで酔っ払いを寝かしつけ、父の話を肴に女だけで2次会をした。
それから1ヶ月後に父は何の前触れもなく亡くなった。夜中に倒れて翌朝冷たくなった父を母が見つけたそうだ。
死んだ人はむしろ幸せそうな表情をしているねと、昔、祖母の葬式で父に話したら、筋肉が弛緩しているから安らかに見えるだけだと返ってきた。本当はどんなこと考えながら死んだのかなんてわからないんだと言っていたのを覚えている。そのときは予想外の冷たい響きに、お父さんはおばあちゃんと仲が悪いんだなんて思ったりしたけど、きっとそうではなかったのだ。
「お父さん、そんな顔してどうしたの?何かいい事でもあったの?それともいつかお父さんが言っていたように…」
新幹線の中で出尽くしたと思っていた涙が留まることなく溢れてきて、父の装束にシミを作った。
「お父さん…お父さん」
いくら待っても返事がない。私が泣いても、頭を撫でてさえくれない。
「お父さんは死なないと思ってた。私が死ぬ以上にお父さんが死ぬなんて想像してなかった。お父さんが死んだときのリスクなんて全く考えてなかったよ。私どうしたら良いんだろう」
ねぇどうしたら良い?
通夜の手配を終えた母が戻ってきて、はっとして時計を見た。いつの間にか日付が変わっていた。
「なんの話してたの?」
「この間彼氏と別れたよーって」
「あら?またなんで?」
「おまえ理屈っぽいんだよって言われちゃったよ。誰に似たんだっけ。誰の遺伝子だっけ」
「私じゃないわよ。文句はお父さんに言って」
「そだよね」
「そう言えば、お父さん遺言書いていたんだって。知ってた?明日弁護士さんが持ってくるって」
「さすがだね。いつもリスク管理ってうるさかったもんね」
「そうね。お父さんらしいね」
「ねぇお母さん。お父さんのどこが好きだったの?」
「さあね?どこだったかな」
「何?照れてるの?」
「そんなことないわよ。あんたと同じよ。お父さんって人の理解はあんたとあまり変わらないはずよ。あんたが好きだと思っているところは私もそうなの」
「へぇー。うまく逃げたね」
「本当だもの。それよりごめんね」
「何が?」
「お母さん、お父さんが倒れたとき寝ちゃってて全然気づかなくって」
あ…何か言わなくちゃ、そう思ったけど言葉が出てこなかった。その間にも母はぼろぼろと涙をこぼし、あとからあとから湧き出す懺悔の言葉をやめなかった。
「私のんきに寝ちゃってたんだよ。お父さん苦しかったろうにね。もがいた跡もあったし。ごめんね。ごめんね。あなたの大好きなお父さん奪ってごめんね」
私は自分の中の語彙を口に言葉で繋ぐことができず、母を抱きしめることしかできなかった。
「起きたらお父さんいなくてね。散歩でも行ったのかと思って、朝ごはんの準備してたの。お父さん遅いなと思って洗面所に行ったらね、お父さんがね、お父さんがね」
もういいよ。もういいんだよ。母を強く抱きしめた。60を超えた体は華奢で頼りなかった。
「ごめんね。あなたのお父さん奪ってごめんね。大好きなお父さんを…」
その日、ずっと母を抱いていたらいつの間にか眠ってしまっていて、気が付いたら母は父に寄り添って寝息をたてていた。
翌日通夜の前に遺言が届けられた。遺言というよりただのメモだった。
「娘は自活する力を身につけた。幸せを得るための投資を理解している。そして母を支えられるくらい、大きくなった。それ故にこれまでの遺言は意味をなさない。破棄すること」
母はそれを読んで笑った。
「愛する妻には何かないのかしらね?」
日付は1ヶ月前になっていた。
葬儀を終え、居間で寛いでいる母に別れを告げた。
「もう帰るの?」
「仕事途中で投げ出してきたから。ちゃんと片付いたら、休みとって戻ってくるよ」
「そう。たいへんね」
「お母さん。リフォームしようか。お父さんの退職金もあるんだし。私が作るよ」
「そうねぇ。でもお父さんいついちゃうかもしれないよ」
「えー。それは追い出そうよ。しっかり成仏してもらわなきゃ困る」
「そうねぇ。考えておくわ」
「うん。じゃあよろしくね。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
母は見えなくなるまで手をふっていた。私は、父と母に見送られて上京した大学初めの頃を思い出しながら新幹線に乗った。父との思い出に包まれながら、東京へ向かっている。
■ だーま神殿

ここは学食から少し離れた中庭。
昼時には枯れ木も山のなんとやら程度にある賑わいも、4限目の途中だというこの時間には本当に枯れ木ばかりである。その一角にあるベンチに一組の男女が見える。女子学生はベンチに座った青年に財布からお札を取り出しそれを渡すと手を振り笑顔で校舎の方へと去って行った。その後ろ姿を笑顔で見送っていた青年だが、彼女が校舎の陰に消えたところで、ふっと真顔に戻った。その中性的で整った輪郭に見とれてしまい立ち止まったのは一体これが何度目か、私はもう覚えていない。
「あんたまだ、そんなことやってんの?」
彼の視界に入ったであろう所で私が話しかけると、彼はまたその顔を崩し笑顔に戻った。
「やあ、澤田。何?趣味をのぞきに変えたの?」
「ちがうわよ。4限休講になったし購買で本でも漁ろうかと歩いてたら見えたのよ。岸本、いつか修羅場になって酷いことになっても知らないよ?」
「大丈夫、大丈夫。うまくやってるし、そうなりそうなときは手を引くようにしてるから。」
確かに岸本ならうまくやるのだろう。この男は昔から人の心を見透かすのに長けていることに加えて、それを手玉にとれる器用さも冷静さも持ち合わせているというそれなりムカつく男だ。その長所をどういうわけか、大学1年生の銀杏色づくころ『別れさせ屋』に昇華させた。私が彼に決定的に幻滅したのは、その所業を知った銀杏散る頃だったように覚えている。
「誰も損しない素晴らしい天職だよ、これは。彼女には新しいスタート、彼氏には自尊心、俺には金、澤田には、ほら、チューインガム。」
彼はそう言うと胸ポケットから取り出したブルーベリーの板ガムを私に差し出した。私はなんとなく片棒を担がされるような気がして一瞬ためらったが、そもそも私は一切関与してないので罪悪感を感じる必要がないことに気づき一枚頂戴した。なによりブルーベリー味は大好物なのである。
「あんたも彼女の一つでもつくれば考えを悔い改めるんじゃないの?まったく、せっかくいいもの持ってるのにもったいない。なんで神様はこんな心とこんな顔を組み合わせたのか。私にちょっとでもわけてくれりゃ良かったのに。」
「顔の良し悪しを数量化できる頭の柔らかさはもっているのに堅物なところが澤田のいいところだよね。あ、ちなみに言っとくけど俺はその顔嫌いじゃないから。見てて微笑ましい。」
くくくっ、と笑うところを見ると私を怒らせて小一時間楽しみたいのだろうがそうはいかない。いや、もちろんムカついている。しかし、そこをグッとこらえることが大人になることだと最近気づいたので、一発殴りたいのを我慢して握ったグーを開きなおした。
「その手には乗りません。私澤田は先に大人の階段を上りますので。」
「大丈夫、ちゃんと一回拳を固めたところ見てたから。くくく、昔だまし絵であった元の位置に戻る階段を思い出した。あははは。」
…こいつには天国への階段を上ってもらおうと思い、開きなおしたパーでひっぱたこうとしたところで私のポケットの携帯がブルブル震えだした。振り上げた手を止め、コールが2回目に入ったところで諦め、電話を手に取った。電話の画面にでた「恭介くん」という文字が私を一気に冷静にさせる。声色を調整して、何もなかったように。4度目のコールが終わった時、心のゴーサインが出たのを確認し通話ボタンを押した。川村恭介くん、私の愛しい彼、憎らしい岸本の親友。
「もしもし…、うん、休講だった。…うん、…うん、分かった。じゃ、そっちにいくね。…うん、あとでね。」
携帯を耳から離し、通話時間が3秒過ぎるのを待って私は通話終了のボタンを押した。付き合い始めて1年になるが未だにこの切るタイミングだけは掴めないでいる。
「恭介でしょ、今の電話?声のトーン、完全にうわずってるしにやけてたよ。どうも彼氏彼女ができると悔い改まるというのは本当らしい、くくく。」
「…今度あったら覚えときなさいよ。私、もう行くからね。」
踵を返し歩き出した私の背中に遠くから岸本が声をかける。きっとその顔はまだあの笑顔が消えていないのであろう。
「恭介によろしく−。お幸せにー。くくく。」
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自分に決定的に幻滅したのはいつだっただろうか。
最初に付き合った女がべたべたくっつくのが嫌で先輩にくれてやった時か、それとも高校の時に付き合った女を、売女を見るような目で見てしまった時か。全ての女とはうまく別れたし、誰一人嫌な思いはさせなかった自信がある。でも誰一人満たすことができなかったようにもまた思う。自分みたいな人間には本当の意味での幸せを与えることができないのだと、大学に入る頃には思っていた。
そんな折。奇妙な縁で中学から高校のアルバムの全てを共に写り、学部は違うといえど同じ大学にまで進んだ馴染みが自分のことを好いているということを知った。恐らく自分の責任を自分で持てる年齢になってようやく、楽に恋愛に向き合えるようになったのだろう。その堅さも好きだったし、見ると無駄な力が抜ける微笑ましい顔立ちも好きだった。なのに、どうして。
俺は自分の周囲で最もその子を幸せにできる人間に任せることにした。
俺よりももっと相手を愛することができて、最も彼女を幸せにできる可能性が高い人間。
そして、それはうまくいった。最初の仕事にしては上出来だ。
彼らはその年の冬に交際を始めた。
誰も損しない、誰も不幸にならない素晴らしき天職。
奇妙な縁が切れるその日まで。
■ 妹に

「そういえばチカが結婚するらしいんだよね」
チズが忌々しげに苦虫を噛み潰したような顔で言う。黙っていれば美人に見える顔が台無しだ。
「私にも式に出ろってさ」
「そりゃそうだよね、おねーちゃんだしね」
「サイテーなんだけど。絶対嫌なんだけど」
チズの妹とは会ったことがあるけど、チズが持ってるものにすごく執着する子だった。チズが持ってるものはなんでも欲しがったらしい。モノだけじゃなくて、まーその、彼氏も。私が知ってるだけでも、高校のときにも手を出されている。チズはもちろん激怒して、すぐに別れた。それも一度じゃなく、二度だ。
「で、式は出るの?」
「わかんない。でも絶対祝ってやんない」
実のところ、チズの気持ちが私には微妙にわかる。
私にも妹がいる。そしてまだ私は妹を許せていないのだと思う。
私と友奈はふたつ離れている。
だから私が受験勉強を始めた高二のときに友奈は中学三年生だった。
成績の悪かった友奈は公立に落ちて、滑り止めの私立に行くことになって、その皺寄せが私にきた。東京の私立に行くために頑張っていた私に、出費が重なるのは厳しいからと諦めるように父は言った。私は泣きながら文句を言ったけれど、母にも無理なものは無理なのと諭され、私はそのときはじめて人生は理不尽なのだと知った。いままで使っていた参考書を親の前でこれ見よがしにすべて破り捨て、その日以来私は勉強することをやめたし、親が何を言おうと私はそれを無視した。
結局私は実家から通える県立大に通うことになった。勉強しなくても受かるような、レベルの低い大学だった。生徒の質も悪くて、その中で私は浮いていたし、親友と呼べる友だちにも出会わずなんとなく卒業してなんとなく就職した。
その間にやっぱり成績の悪かった友奈は高校を卒業し、私が実家通いだったおかげで家計に余裕もできたせいか、東京の大学を志望しそのまま一人暮らしを始めた。勉強しなくても受かるような、レベルの低い大学だった。私は友奈を許すことができず、たまに帰ってきても一言も口を利かなかった。
職場の先輩が、三十になるころには許せるようになるよと言った。私は三十になっても絶対に許すものかと思っていた。
母が亡くなった。
てきぱきと通夜の事務を済ませていた父だったが、深夜には疲れが積もったのだろう棺の近くのテーブルでぼんやりとしていた。友奈は通夜には間に合わず、深夜にやってきた。葬儀のあいだ、友奈はずっと肩を震わせていた。肩を抱くと、友奈は嗚咽を大きくして、そしてお姉ちゃんごめんね、ごめんねと何度も言ったのだった。私はまだ妹を許せていないのだと思う。ただ、もし次に妹が帰ってきたときには、一緒にお酒ぐらいは飲んであげてもいいかなと、初めて思った。
結局、チズは結婚式に出たらしい。だけど、妹を許すつもりはまだないらしい。
だから私もそう簡単には妹のことを許してはいけないのだ。そうだ、先輩の言ったように、三十になるまでは。
■ 四谷先輩、嬉々として怪談を語る

そうそう、これは私の親戚の話なんだけどね。親戚が持ってるすっごいボロいアパートのひとつに「でる」って噂の部屋があったの。一階の端っこの部屋なんだけど、夜になると変な気配がしたりとか、子どもの泣き声が聞こえたりとか、いわくつきの部屋だったのね。とはいっても死んだり怪我したり病気になったりみたいな実害があったわけじゃなくて、霊感がない人とかなら平気だったみたい。その親戚もそのアパート自体譲渡されたものだったらしくて、原因とかわからなかったの。でも出るっていうから仕方なく家賃を他の部屋より安めにしてたのね。隣の部屋の半額ぐらいで、入居者には一応それとなく注意してたり、いろいろフォローはしてたみたい。
そんな部屋にあるとき近くの大学の新入生が入ることになった。ちょっと苦学生気味で、家賃の安さに渡りの船とばかりに飛び付いたらしいの。なんで安いのかなんて考えもせずにね。彼をA君としておくね。運が悪いことにA君は霊感が強かったの。引っ越した当日から子どもの泣き声が響いてきたらしくて、大家さんもA君はすぐに引っ越しちゃうだろうと思ってたのね。ところがさらに運が悪いことに、A君の親戚によくわかんないんだけど除霊みたいなことができる人がいたらしくて、この人をBさんとするね。ある日A君とBさんが大家さんのとこに、除霊をしたいので床を剥がしたいって相談にきたんだって。大家としても霊がいなくなってくれるならそれに越したことないし、いいですよっ言ったのね。で、大家さんが見守る中で床を剥がしてみたら、大人の骨ととてもちっちゃな赤ちゃんのような骨と、古い赤ちゃんの遊び道具の、なんだっけガラガラって言うんだっけ、あれが出てきて、ああこの人たちが自分を見つけてほしくて暴れてたんだなって話になって。それで一応警察にも報告して、骨とおもちゃをお祓いして弔ってあげたの。これで一件落着、になるはずだったんだけど。
それから一週間もしないうちにA君が心臓麻痺で死んじゃったの。それで大家がBさんに連絡取ろうとしたらBさんも死んじゃってた。今までせいぜい子どもの泣き声が聞こえるぐらいだったのに、いきなり二人も死んじゃってね。事故物件になったからもっと家賃を安くしたら、次の入居者も入ってすぐに交通事故で死んじゃって。さすがにこれは気味が悪いってことでその部屋はもう人に貸さないことにして、隣の部屋の人も気味悪がって逃げちゃって、もともとボロかったのもあって空き室が目立つようになっちゃって、それでついに建て壊すことになったの。そして例の部屋を崩して、地面をならすために深く掘ってたら出てきたらしいの。前に見つけた骨と同じぐらいちっちゃなのと、赤ちゃんのおもちゃが。
もう調べようもないからわかんないんだけど、あの部屋で亡くなったのは母親と双子で、おかあさんと双子の片方だけ持っていかれちゃって、双子の残された方が怒っちゃったんじゃないかなって話になってた。
そのボロアパートの跡地には今ではちょっとこじゃれたオートロック式のマンションが建ってて、まだそのマンションで霊が出るって話は出てないんだってさ。
■ 私がモテないのはどう考えてもお前達のせい

今回の戦いの趨勢は決したな、とハイボールの入ったグラスの淵を指でなぞりながら私は思った。
飲み始めから1時間が過ぎた今、8人席の長机には綺麗に4対4の陣営が築かれている。
個室の入口から遠い4席では、自然に男を落とす技術を実行している狩野と自然と男が落ちる雰囲気を持っている水瀬さんが男側のナンバーワン、ナンバーツーと絶えることのない談笑を交わしている。
狩野のボディタッチは私が見ている限りで数えただけでも優に30は超えているだろう。あの子の考えていることはきっと、こんなところだ。男子の1位は恐らく水瀬さんに持っていかれるので、とりあえず2位をキープしつつ、あわよくば1位すらも奪えれば奪ってしまおうと。自分の地位を守りつつ上を狙えるようなら狙う、そういったしたたかさが、彼女の指が1位の男の肩に触れるたびに透明度を増して透けて見えるようだ。だがそのボディタッチもちょっといじけた仕草も、男達には気づかせない程度の均衡のとれた絶妙な攻撃であることに私は感心していた。もちろん呆れながらだが。
水瀬さんの方はただただ笑っているだけで事が済んでしまう可愛らしさを持っているため、何を気にするでもなく自分の流れでそこに座っている。もしクラスで殺し合いのサバイバルゲームが起こったとすると、彼女を起爆剤とした戦いで5・6人の男子を削ることが出来るだろう。そして残った一人を選ばないという選択をしうる女の子だと思う。選ばれる側には立つことがない、選び続ける者だけが持つ余裕。そんな風なものを纏う彼女には勝つことなど出来ようはずもない。生きるチート、それが私の水瀬さんへの評価だ。
入口側のこちら側の席はというと、男側の幹事と明らかにお情けで呼ばれたような、笑われることだけが仕事のような人が目の前にいて、趣味や出身などのぼんやりとした会話をぽつりぽつりと続けていた。ぽつりぽつりとでも続いていたのはきっと、お情け君と幹事が非常に仲良しで、お情け君の頑張りを幹事君がこれもまた頑張ってフォローしていたからだろう。そんな頑張りには申し訳ないが、私は3位がいなかったことにより早々にマウンドから降り、観客を決め込んでいた。というわけなので、もっぱら女子側からの送球はもう一人の女子である安藤からによって行われていた。
安藤。今回の女子の中で最も市場価値が低く、それでいてそれに気づかないようにしているちょっと可愛そうな女子。狩野と性質的には同じだが、どうやっても上位を手に入れることが出来ないので、せめて結果を出すことによってアイデンティティを保とうという性質の女子。そういえば彼女は前回の合コンではお持ち帰りという結果を出していたことを思い出した。男の顔がそれなりに良かったのでほいほいとついて行った彼女はまんまと食べられたにも関わらず、メールアドレスすら手に入れることが出来なかったのだという。その出来事を武勇伝のように語ってしまう哀れな女子である。
先ほどから見るに彼女は今回、お情け君にターゲットを絞った様で、また彼の方もまんざらではないようだ。このままいくとこの二人は交際することになるかもしれない。それはきっと、安藤が彼の頑張りを選ぶ側の余裕で一週間ほど軽く弄んだあと、結果を残すために選ぶという選択をするということなのだろう。そして、これまた一週間ほどしてからまたほいほいと寝るにちがいない。そういえば前回のお持ち帰りの時は生理が来ないと大騒ぎをしていたっけ。今回もきっと避妊なんて考えずにヤっちゃって、そしてまた生理がこないとひとしきり騒いで、実は本当に子どもが出来ちゃってたりして、お情け君にとっては初めての女の子だから責任取るとかぬかし始めて、結局逃げ切れなくなって、学校を二人で一発退場しちゃうんだ。うわぁ、考えただけで笑っちゃう。
「ふふふ」
「あ!君島さん、やっと楽しそうにしてくれた!良かったぁ。」
満面の笑みでいうお情け君。彼には罪はないのだ。
ただ選ばれる側に居続けたものの持つ怯えや悲しさのせいで滑稽に見えてしまって、私はさらに笑ってしまった。笑いながら私は、サバイバルゲームになって真っ先に死ぬのは一人ぼっちのわたしなのかもしれない、なんてことを思った。
■ Ghost town age

ゴーストタウンエイジをご存じですか。映画やドラマで群衆として存在している人達。彼らは物語の主人公の世界の中でしか生きられず、与えられた配役をこなし続けようとする。来るべき主人公との接点のために、来る日も来る日も同じ演技を行う。それはもう演技なんかではなく、彼らにとっては日常です。ロールプレイングゲームの町人を想像してもらえばいいでしょう。誰もがゲームの電源をいれないと彼らの日常は始まらないと思っている。けれども、たしかに彼らの世界は常に存在している。主人公とゲームのなかで交わり、物語をなすために、来るべき主人公にかける台詞を携え、毎日同じところを徘徊している。そういう主人公のいないゴーストタウンで暮らし、生きている人達のことをゴーストタウンエイジと呼ぶのです。
ただ、希に主人公の世界を逸脱する者がおります。説によると、偶然に別の主人公どうしの世界が重なりあったとき、他の主人公の世界に紛れ込んでしまうそうです。デジャブってご存じでしょう。大半は本人の勘違いによるものなのですが、デジャブと呼ばれる現象のうちの10%は、他の世界から迷い混んだゴーストタウンエイジのせいだとも言われております。彼らは世界が変わっていることに気づかないまま、自分の配役を全うしているため、同じところで同じような光景として、その世界の主人公に写るのです。
ゴーストタウンエイジが彼らの主人公の世界から逸脱する原因として、最近こういう説も唱えられています。彼らが、自分自身が世界に備えられた役でしかないことを認識したときに、他の主人公の世界でルーチンの言動をやめ、その世界の主人公になろうとする。正直に申し上げまして、先に挙げた偶然他世界に移った彼らが、移った先で自身と世界のからくりを認識するのか、もとの世界で既に認識しており、なんらかのタイミングを狙って別の世界に意思をもって移住するのかはわかりません。ただ、共通して言えるのは、もとの世界から、つまりは与えられたルーチンから解き放たれたことを認識したゴーストタウンエイジは危険だと言うことです。
誰だってゴーストタウンで歳はとりたくない。その世界の主人公でいたいはずなんです。主人公にとって変わるため、彼らは何をするでしょう。私があなたにこんな話をしたのは、世界の交わりが起こりそうだと感じているからです。別の誰かに乗っ取られなよう気を付けてください。
その占い師は矢継ぎ早にそれだけ言うと、私を追い出して次の客の相手を始めた。質問も受け付けてくれなさそうだったので、諦めてその場を後にする。評判の占い師だと言うから来たのに、相談にも乗ってもらえず、奇妙なSFを売られてしまった。
「あっすいません」
ぶつかったのは若い女だった。
「大丈夫ですか。お怪我はありませんか」
と声をかけ手を差し出した時、既視感に襲われた。デジャブだと思った時には差し出した手が握られていて、彼女の冷たい体温が伝わっていた。
「すみません。前をよく見ていませんでした」
「こちらこそすいません。考え事をしていたもので」
冷たい手を引っ張りあげると、なかなかの美人であった。デジャブの1割は他世界のゴーストタウンエイジのせいだとか言っていたな。彼女もそうだろうか、それともただ私の勘違いか。ひとつ聞いてみることにするか。
「あのー、以前どこかでお会いしたことありませんか」
言葉にして気づいたが初対面であろう若い女にかける台詞としては最悪の部類だった。案の定、女は手を振り払い、落とした鞄を拾い上げて走り去っていった。ただの勘違いだったんだろう。深く考えても意味はない。ゴーストタウンエイジ?面白話として友人に語り酒の肴に昇華すればいい。それ以上の意味はない。
帰途。いつもとは違う道。占いは少し離れた町にあった。電車はなく、バスで30分ほどの距離だった。せっかく知らない町に来たのだから散歩がてらに探検しながら歩いて帰ることにした。市を跨ぐ大きな川沿いに歩く。河川敷に設けられたバスケットコートで高校生らしき制服の学生がシュートの練習をしている。真っ赤に染めた髪の毛とバスケットボールが、遠目からは同じに見えて面白い。時間もあるので暫く観察することにした。近くの自動販売機で缶珈琲を買い、煙草に火をつける。煙が肺に染むのを感じながら息を吐き、今はなき青春の姿に微笑む。なかなか熱心に練習している。あの派手な頭はNBAの選手を真似しているのだろうか。あんな格好だから、学校の公式な部活動ではないだろう。ストリートで活動しているのだろうか。
「おい。おっさん」
突然肩を掴まれた。振り替えると彼らの仲間なのか、制服をこれでもかと着崩した若者3人が睨んでいた。親父狩りの危険を覚え、一瞬身構えたが、次ぎに続けられた言葉はそうではなかった。
「いつも、ここで俺らの練習見ているよな?昔バスケやってたのか?」
なるほど。危険なのは私のほうか。
いや、どこまでが配役なのか。
■ ホラー映画祭

「暇そうだね。松川くん」
誰だこんちくしょう。どうみたら暇そうに見えるのだ。この暑い中、もう2時間も道行く人に声をかけているのだ。この尋常じゃない汗が目に入らぬか。何が悲しくて夏休み真最中の炎天下でビラを配らねばならんのだ。また例によって高山さんの好奇心というかお節介というか、とにかくスロットのように移り変わりの激しい彼女の気分で僕はこんな目に遭っている。だいたいこのビラはなんなんだ。
『恐怖の怪談!!真夜中の24時』〜毎年恒例の映研自主製作ホラー祭り〜
プログラム
@靴紐が結べない男(10分)
Aキラルアキラル(20分)
Bホラー映画(5分)
C着信なし(2分)
D恐怖のエレクトリカルパレード(10分)
E製作秘話(150分)
日時 :8/13金曜日 13:00(昼間だよ)
場所 :サークル棟2F会議室
入場料:無料、冷房効いてて涼しいよ♪
突っ込みどころは段ボールに積まれたこのビラの数ほどあるのだけど、おおよそ一言でまとめると、この映画祭は絶対に面白くないので行かない方がいいということが余すことなく書かれているビラを、大量にばらまいて集客しようとしているというパラドックスを抱えた僕はいったい何をしているのだろうということだ。あぁもうすべて高山さんが悪いのだ。暑い暑い。だぁーっ。おっと忘れていた。「暇そうだね?」と声をかけられたのであった。誰だが知らぬが、こんなに汗水垂らして働いているこのお人好し松川に向かって、暇そうだとは何事だ。この溢れんばかりの汗と怒りを搾り取って、煮詰めて、発酵させて、蒸留して、冷やして献上してやろうか。何故冷酒にする必要がある。落ち着け。僕は今全体的に間違っている。冷静になれ。名前を呼ばれているから知り合いだ。それにうら若き乙女の声ではないか。お人好しの猫は被っておいた方がいい。このくそ暑いのに猫など被っていられるか。やつらは毛がふさふさなのだぞ。いかん。また僕は全体的に間違っている。とにかく振り向いてみようじゃないか。話はそれからだ。よし
「やっほ。松川くん。暇そうだね」
見間違い聞き間違いかもしれない。もう一度振り反ってみよう。いやふり反るまでもない。彼女ならできるし、やる。間違いない。
「この滴り落ちる滴が見えませんかね高山さん」
「あっ凄い濡れてる。通り雨?超局地的ゲリラ豪雨?ここだけ低気圧だったのかなー。天気予報では晴れっていってたのになー。ドンマイ」
「そーですね。その天気予報二度とみない方がいいですね。僕も高山さんのこと二度と見ないようにしますんで」
「松川くーん。おーい。松川くんってば」
「セミが五月蝿いなぁ」
「ねぇってば」
「……」
「松川殿…様…伯爵…公爵…皇后…3等兵」
「……」
「松川……なにがし」
「名前くらい覚えといてよ。それに皇后は女性の敬称でしょうが」
「3等新米兵にはつっこまないんだ?」
「……何しに来たんですか」
「あー棒読みー。もしかして、松川軍曹怒ってる?」
「昇進させてご機嫌とりのつもりですか」
「あーやっぱり怒ってるのですね。松川伍長」
「階級下げるな。別に怒ってませんよ」
「でも、イライラしてる。松川」
「もはや呼び捨て?イライラもしてませんてば」
「ほんとー?じゃあ私だけか」
「ごめんなさい。たった今イラッとしました」
「やったー。おそろいだね。まっつん」
「あーなんか僕、殺意の沸かしかた習得したみたいです。試していいですか」
「それは大事にしまっとこうよ。いつか来るいざというときのために」
「今がその時だと思うんです」
「仕方ないなー。チャラララン。はい、マックの割引券」
「よーし、必殺」
「わかりました。ごめんなさい。そこまで言わなくてもいいじゃないですか。ぐすん。お金なら払いますんで、命だけは何卒ご容赦を」
「労働の対価でしょうが。あと3食分ですからね」
「マック、すき家、ダイソーだったよね。うん。忘れてないよ」
「全然違いますよ。大戸屋、スシロー、叙々苑でしょうが」
「あーダウト。最後のは牛角です」
「ちゃんと覚えているのならいいのです。良くできました」
「わかったよー。経営者としてちゃんと社蓄の餌は用意しときます」
「では高山社長、早速行きましょう。お腹へりました」
「ちらっ。ちらちらっ」
「なにやってるんですか?暑いならうちわ貸したげますよ」
「チラリズムです。お色気作戦で大戸屋のところがマックにならないかなーと」
「冗談はまな板ボディだけにしてください」
「あーあんまりだー。人が気にしているところをー。ずけずけと乙女心をー。鬼!!悪魔 !!魔物 !! のっぺらぼう!!ウンチ!!チカン!! 」
「しりとり終わってしまいましたね」
「うーうー」
「わかりましたよ。マックでいいですよ」
「チーズバーガー」
「ビックマックセットL」
「シェークもつける」
「照り焼きセットL」
「えー割引対象外だよー」
「知るか」
僕を5食で雇った高山さんと、悪態をつき合いながら、大学正門の道路向かいにあるマックに向かった。お昼には少し早い時間で、席は半分程しか埋まっておらず楽に座れた。店内は冷房が効いており、天国のように快適だった。冷房は人類の最も偉大な発明といっていいだろう。
「快適ですね。独り暮らしだと家で冷房いれるのも躊躇われますしね」
「うん。最高だよね。この調子で地球ごと冷やしてくれれば、温暖化しないのにね。窓開けてみようか」
「地球冷やす前に、頭を冷やした方がいいですね」
「よーしどれどれ」
高山さんはおもむろに立ち上がり天井から注がれる冷たい気流を探し始めた。
「で、何しに来たんでしたっけ?」
「あーこんなことしている場合じゃなかった。危うく忘れるところだったよ」
「忘れるくらいならたいした話じゃなさそうですね」
「実はお願いがあってね」
「あなたお願いの前によくマックに値切れましたね」
「えへへ」
「あーもう。続けて」
「実はね、今日ね。映研がねーホラー映画の撮影するんだって」
「え、もしかしてまだ撮ってないんですか?」
「うん。そうみたい」
「えーもうビラ配っちゃいましたよ」
「どうせ2,3枚しか受け取ってもらえなかったんでしょ?」
「するどいですね。3枚です」
うち1枚は通りかかった後輩に無理やり……
「間に合わせるって言ってたから大丈夫だよ」
「ときに高山さん」
「はい、なんでしょう」
「映研とはどのようなご関係で?」
「そこを聞く?聞いちゃう?聞いちゃいます?拝聴する?」
「やっぱいいです」
「そこは聞いた方がいいんじゃない?聞くといいことあるよ」
「……」
「ねえ聞いて。私の話を聞いて。聞けー」
「……」
「ゴホン。今回の作品に知り合いが出るらしいの」
「へー。出るって役者ですか?」
「たぶん」
「たぶんって知らないんですか?」
「その知り合いは演劇部の人で、この間映研と打ち合わせてたところをたまたま聞いちゃって。映研の人から宜しくなーって言われてた」
「演劇部なら役者でしょうね。本人に直接聞いたらどうですか」
「やだー中原くんとはまだそういう関係じゃないから」
「で、その王子様の役者っぷりを見学するのを付き合わそうという話ですね」
「早い話がそういうことー」
「映研の知り合いに頼んで撮影に参加したらいいじゃないですか?」
「私映研に知り合いなんていないよ?」
「へ?じゃあどこから仕入れた情報?」
「中原くんの生態のリサーチ中に偶然手に入りましたー」
「怖っ。高山さんストーカーしてんすか?」
「人聞き悪いなぁ。中原くんのことをもっとよく知るために尾行したり、身辺調査したりしてるだけだよ」
「辞書ひいたらそれがストーカーだと書いてあると思いますけど。あ!へ?じゃああのビラは?」
「あれ?えへへー自主製作」
「自主製作映画のビラの自主製作したんですか?なんのために?当然映研からの許可はもらっているんでしょうね」
「A無断だよーん。んで@映研の人に目に留まるように」
「ちょっと待ってください。僕は何をやらされていたんですか。話が見えませんけど」
「あれが映研の人の目に留まったら、『映画祭の宣伝をしてくれているなんて、あぁなんていい人だ。』ってなるでしょう?」
「ならないでしょうね」
「そうなったら、実は私が作ったんですってなって、是非映画祭に来てくださいってなって、映画祭で中原くんと……えへへー」
「本気ですか。お花畑すぎやしませんか」
「 ビラの印刷代と社蓄への餌代が少々痛かったけど、我ながら完璧な作戦だと思うの」
「えーっとどこから除草剤蒔いたらいいですかね。まず、あのビラに集客効果はありません。センスが無さすぎます。これは高山さんだけのせいじゃなくて、映研がイタイのもあるんですけど。あれだと僕たちお馬鹿ですよーってことと、この映画祭面白くないですよーってのが書いてあるだけで、むしろもらった人を確実に遠ざける力のあるビラなんですよ。唯一あるとすれば……映画祭のセールスポイントわかります?」
「中原くん?」
「じゃねーよ。それは高山さんにとってでしょ。第一、演者の情報書いてないでしょ」
「そーでした。あれ?じゃあなに?」
「唯一のセールスポイントは冷房が効いてることですよ。それくらい非道いんです。あのビラは。この際だからと言っておきますが、24時と言ったら夜中なんです。昼間になり得ないんです。『真夜中の24時』ってまな板ボディのAAカップみたいなもんですよ」
「Aだもん。AAじゃないもん」
「それ以前に上映昼間でしょ?夜中関係ないじゃないですか」
「調子いいときはBくらいいってるし」
「上映作品も非道いですよ。靴紐の結べない男?意味不明ですよ。百歩譲ってもコメディーでしょ。着信なし?2分?どんな曇ったレンズでもくっきりと落ちがみえますよね。それに製作秘話が上映時間の3倍って。作品の中で語ってくださいよ。いっそのこと打ち上げにしたらどうですかね。冷房の効いた部屋で昼間から宴会。いいじゃないですか。よっぽど人集まりますよ。まぁ、作品については高山さんに言っても仕方のないことですけど」
「これでもちょっと大きくなったんです」
「なんの話ですか」
「何でもないです。松川くんやっぱりイライラしてるみたいですね」
「いいえー。わりとすっきりしました」
「そうですか。私はこれからどうすれば……」
「うーん。シェークを追加してから作戦会議ってのはどうでしょう」
「そうしましょうか。宜しく頼みますぞ参謀殿」